丹敷浦はここだ!

『日本書紀』を基にすると、神武軍はおそらく船で紀伊水道を南下して潮崎を通り熊野灘を北上して佐野に上陸して、熊野神邑(三輪崎)を訪ね、天磐盾に登り、そこから再び船に乗って進んだ時に嵐にあって二人の兄を失い、皇子のタギシシミミと軍を率いて熊野荒坂津、又の名を丹敷浦に上陸してニシキトベを討ったとしています。丹敷浦は最初の上陸地ではなく、嵐の後に上陸したとあり、最初の上陸地は書かれていません。ここは同時に天磐盾から戻って船出した場所ということになりますが、それではここからどこに行こうとしたのでしょうか。大和は内陸ですから、どこかで必ず船から降りなければなりません。その「最終上陸地」に向かったということになります。あてもなく出港はしないでしょうから。しかもその最終地は船で行かなければならないほどの距離があるということ。そうすると大紀町錦が有力になってきます。
ここが当初予定されていた場所だとすれば、嵐に遭ったけれど結果として最終上陸地に着いたと言えます。
私は三輪崎が丹敷浦であり、ここから那智にかけての海岸線でニシキトベとの戦いが行われたと考えます。神武軍の船団は紀伊水道を南下して潮崎を回ったあたりで嵐に遭遇しました。ちょうどトルコの軍艦エルトゥールル号のように。そして船団は漂流して、一部は二木島に流れ着き、そこで水死者を葬ったことがあり、それが神武の兄であったかどうかは別にして、その伝承が残りました。またそれよりも遠くまで流された船もあったでしょう。それが大紀町錦。しかし神武とタギシシミミが率いる主力部隊はとりあえず近くの海岸に着いて上陸しました。そしてニシキトベの集団に出会い、彼らの本拠地の三輪崎(熊野神邑)に落ち着くことができました。ここに滞在している間に助かった兵士たちも集まって来て神武軍も体勢が整ってきました。神武はニシキトベとの交流の中で、彼女が聖地として崇める那智の大瀧(『日本書紀』では「天磐盾」となっています)。その場所に関心を抱き、ある日密かに登ってみました。それがトベに知られるところとなって、聖地をけがされたということで戦いに発展します。トベの集団は戦闘能力が神武軍に比べて劣勢であり、結果として神武軍に敗れてしまいます。最後の抵抗に万一の場合に備えて用意していた、水銀精製の過程でできた有毒物質を使用したと思われます。気体では保存できないでしょうから、固体状の物を水に溶かして散布しました。ただしそういう方法では効果が現れるのに時間がかかり、意識を失った神武軍を襲う前に自分たちが討伐されてしまったというのが実情です。タカクラジはトベの集団とは近接していたため、有毒物質の存在を知っており、それを解毒する方法を用意していて、それを神武軍に使用しました。そして神武は那智にしばらく滞在して(熊野三所大神社の境内に神武の仮宮跡の碑があります)戦後処理を行い、トベの聖地の那智の大瀧を「天磐盾」と名付けます。その名前が大和朝廷に記録として残され、『日本書紀』に記載されました。生き残りのトベの集団はニシキトベが支配していた二色や那智、三輪崎にトベを祀りました。これが私が考えた神武とニシキトベとのストーリーです。
ニシキトベの話は、熊野における神武のエピソードの前半です。後半に活躍するのはタカクラジと八咫烏。さらに直接には登場しませんが、タカクラジの父であり、神武と敵対したナガスネヒコの主君であったニギハヤヒへと話を進めます。


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