加賀国についての3ー加賀郡と能美郡

 加賀郡は律令制度による郡制が出来て成立しますが、それ以前はどうであったかというと、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に「加我国造(かがのくにのみやつこ)」が越前国に属したとの記述があります。かなり以前から越前国の支配下にあったようです。『先代旧事本紀』はこのブログではニギハヤヒに関する記事の中で説明しています。また、平城京跡からは「越前国香々郡」と記された木簡が発見されています。「かが」の名称は柳田國男が『地名研究』で芝原という地形からきているとしていますが、これには異論もあります。『地名研究』は現在講談社学術文庫に収められています。柳田國男は「大きな地名」よりも小字などの小さな地名に着目し、地名を生活の必要によって命名する「利用地名」、自分の土地だと宣言するための「占用地名」、地名を分割して名前を付ける「分割地名」に分類しています。地名学の源流となる名著だそうです。
 河北郡(かつての加賀郡)の属する加賀藩(通称)は、明治2年(1869)の版籍奉還により正式名称が金沢藩になります。明治4年(1871)廃藩置県により河北郡は金沢県の管轄になります。明治5年(1872)に金沢県が石川県と改称されます。明治11年(1878)郡区町村編制法の石川県での施行により河北郡が発足します。それ以降の賀茂神社の所在する旧金津荘の変遷ですが、明治22年(1889)の町村制施行により金津村と金津谷村とになります。賀茂神社の鎮座地の横山は金津谷村に属します。明治40年(1907)に金津谷村と高松村が合併して高松村が出来ます。大正11年(1922)には高松村が町制施行して高松町になります。昭和25年(1950)には賀茂神社のある高松町横山が高松町から分かれて金津村が発足します。昭和35年(1960)に金津村が宇ノ気町に編入されます。平成16年(2004)には宇ノ気町や高松町、七塚町が合併してかほく市が誕生します。これを見ると賀茂神社のある横山地区が複雑な変遷を経てかほく市となっていることが分かります。
 能美(のみ)郡は弘仁14年に江沼郡の北部が分けられて成立します。近代の能美郡は明治11年(1878)の郡区町村編制法の石川県での施行により能美郡が発足し、郡役所が小松町(現、小松市)に置かれます。小松市には加賀国府が置かれましたから、いわば能美郡は律令制下における加賀国の中心地であったと言えます。明治11年に発足した能美郡は、現在の能美郡川北町(かわきたまち)、能美市(のみし)、小松市の大部分と白山市の一部から成ります。川北町は手取川の北岸にあり、それが町名の由来です。能美市は、平成17年(2005)に、能美郡根上町(ねあがりまち)、寺井町(てらいまち)、辰口町(たつのくちまち)が合併して誕生しました。このうち寺井町は九谷焼の産地です。
 弘仁14年に越前国から分けられて成立した加賀国を構成する4郡のうち、江沼郡(現在は行政名としての江沼郡は存在しません)が一番越前国(福井県)に近く、その北にある能美郡には加賀国府が置かれて律令制下での政治経済の中心地でした。その北にある石川郡は石川県の県名の由来となりました。賀茂神社のある加賀郡は加賀国の名前の由来です。現在の県庁所在地である金沢市は石川郡と加賀郡にまたがっていました。


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