花の窟ー御綱掛け神事(3)

『紀伊続風土記』の記述を読むと、文中で「墓」とあるように、当時はイザナミの墓という認識だと分かります。ここが神社になったのは明治になってからです。そして御綱掛けの「縄幡」の起源について、もともと朝廷から献上されていた錦の幡を乗せた舟が熊野川で転覆し、祭りが迫っていたのでやむを得ず縄で作ったが、その後朝廷からの献上がなくなり縄を使うのが定着したという話になります。また「相須(あいす)村」の地名がありますが、ここは現在新宮市熊野川町相須で、北山川が熊野川に合流する地点。地区には本宮大社の末社とされる甲明(こうめい)神社があります。この神社の祭神はなかなか興味深い組み合わせです。それについてはあらためて紹介します。
また「歌舞はない」とあります。以前花の窟神社に行くのにネットで調べたところ、歌や踊りの行事があって参加した人の体験が出ていましたが、今はそういう記事がありません。今はやっていないのでしょうか。ただしこの朝廷からの献上を再現した時代行列の「錦の御幡献上行列」が、10年くらい前にあったようです。こちらは新しい行事ですが、もしかしたら再開されるかもしれません。
さらに『紀伊続風土記』には、この祭りが毎年二月二日、十月二日の二度で、『寛文記』の「昔の祭日には紅の縄、錦の幡、金銀にて花を作り散らし、火の祭りと云う」との記事を引用しています。ここで「火の祭り」という表現があるのが気になります。那智や神倉に火の祭りがありますから、熊野には火を崇める信仰があったのではないでしょうか。
『紀伊続風土記』が引用する『寛文記(かんぶんき)』についてです。寛文は1661年から1673年の年号で、将軍は4代家綱です。『寛文記』の正式な名は『後浄明珠院殿記(ごじょうみょうじゅいんでんき)』。これだけ長いタイトルだと『寛文記』の方が簡単でいいです。後浄明珠院殿というのはこの史料を書いた関白二条康道(にじょうやすみち)の戒名です。康道の「康」は「家康」の「康」。徳川家から贈られものです。それだけでもただ者でないことが推測されます。康道の母は豊臣完子(とよとみさだこ)。この人の名前は知られていませんが、この人は江(ごう)の娘です。江(お江、於江与)は二代将軍秀忠の正室で大河ドラマの主人公にもなりました。江の三度目の結婚相手が秀忠で、3代将軍家光の生母です。江の前夫豊臣秀勝との間に生まれたのが、康道の母完子です。秀勝は秀吉の姉の子、秀次の弟になります。父秀勝が急逝し、江が秀忠と結婚したので完子は伯母の淀殿に引き取られ九条家に嫁ぎます。そして生まれたのが康道。彼は二条家に養子に入りました。完子は豊臣家滅亡後は秀忠の養女になっています。康道はまさにサラブレッドですが、彼の妻も後陽成天皇の皇女で後水尾天皇の同母妹です。そういう環境にいた康道は朝廷の儀式や慣例に詳しく、また祭礼行事にも十分な知識がありましたから、それを記録したのが『寛文記』です。『紀伊続風土記』がそれを引用しているのは注目に値します。当時の朝廷でも花の窟の祭礼行事が知らていたということになります。
『紀伊続風土記』は江戸時代末の資料ですが、時代を遡って平安時代の資料にも花の窟の記事がありますので次章で紹介します。


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