楯ヶ崎ー神武天皇最後の上陸地?

熊野市と尾鷲市の間は紀伊山地の台高(だいこう)山脈が熊野灘に落ち込んでおり、熊野街道最大の難所です。国道42号線も近年整備された紀勢自動車道も海岸から離れた場所を通っています。鉄道もこの区間は開通が遅れました。そういう訳でせっかくの海岸美を残念ですが楽しむことはできません。それを楽しめるのは海岸近くを走る国道311号線です。これは江戸時代から使われている危険な道路を改修したもので、そのため現在でも一部狭い場所があり、運転には注意がいります。
その311号線の二木島(にぎしま)にある楯ヶ崎(たてがさき)入り口駐車場に、令和元年(2019)に「熊野荒坂津記念碑」が再建されました。高さが全体で4m弱、土台付きで堂々としたものです。石碑の碑面には「熊野荒坂津 令和元年再建」と刻まれ、横に立つ石標には「神武天皇最終上陸地」とあります。「再建」とあるように以前にも記念碑がありました。最初の記念碑は、この再建された場所よりも約900m,離れた阿古平(あこだいら?)の千畳敷に地元の人たちが建てたものです。石碑の文字は徳川頼貞(よりさだ)侯爵が揮毫した「熊野荒坂津」でした。徳川頼貞(1892~1954)は15代紀州徳川家当主頼倫(よりみち)の長男。
昭和15年(1940)の紀元2600年の奉祝事業では「熊野荒坂津」の場所の特定ができず、正式な聖蹟顕彰碑が建てられなかったから建てたようです。
それが昭和34年(1959)の伊勢湾台風で土台を残して流されてしまったので、それから60年になりますから再建したのでしょう。今回も地元の人が中心で政治的な背景はないそうです。この土地の人たちの神武に対する思いが伝わってきます。 ここでお断りしますが、私が「神武」と呼び捨てにしているのは単に文字数を少なくするためです。
元の石碑があった場所は楯ヶ崎の近くでした。この楯ヶ崎が神武の最終上陸地ということになります。神武は九州を出発して所々に上陸しています。しかし熊野で上陸してからは内陸の大和に向かい、それからはずっと大和におられたので、結果として熊野が最終上陸地であることは確かです。
私は初めて楯ヶ崎の写真を見た時に、その迫力ある姿に目を奪われました。これこそ神武が登ったという天磐盾だ!と。
しかし冷静に考えると登る道もなさそうだし、ここに登ってみても意味がなさそうです。やはり天磐盾は那智の滝!ただ見たいという気持ちは持ち続けました。私は楯ヶ崎について陸上からは行けず、海から眺めるだけだと思っていました。丁度、勝浦温泉のホテル浦島が岬にあるけれども宿泊客は勝浦港から船を利用するように。私事ですが、3歳の時に船に乗って死ぬほどの恐怖体験をしました。それがトラウマになってなるべく船に乗らないようにしています。その延長で飛行機も苦手です。「三ツ子の魂百までも」です。
今回調べてみて、陸上からのルートがあることが分かりました。再建された記念碑の近くに遊歩道があり、楯ヶ崎を見に行くことができるそうです。しかし遊歩道と言っても散歩気分で行けるような道ではないそうです。何年か前でしたら行ったかもしれませんが、今は無理。この遊歩道の途中に阿古師(あこし)神社があります。神武の兄の三毛入野命を祀っています。それについては後ほど触れます。
楯ヶ崎をもう少しご案内します。


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