本居内遠が荒坂津と断定した楯ヶ崎

楯ヶ崎は熊野市甫母町(ほぼちょう)にあり、二木島(にぎしま)湾の入り口にあります。高さ約80m、周囲約550mの岩塊で、熊野酸成岩の柱状節理が発達した特異な景観を見せてくれます。三重県指定の名勝、天然記念物です。ここに行くのには、遊歩道もありますが、やはり全体の姿を見るには観光遊覧船で行くほうが便利です。船は熊野市の大泊町(おおどまりちょう)から出ており、事前予約制で一人での乗船ができないため誰かを誘っていく必要があります。船は港を出ると鬼ケ城、がまの口(洞窟に大きな穴が開いていて、海の色が光で変化し、別名青の洞窟)、楯ヶ崎、海金剛(陸上からは見えない。福井県の東尋坊よりも高い絶壁)を見て港に帰ります。所要時間1時間10分の船旅。船を利用すると、神武の船団が暴風で大変な目に遭ったという伝承が偲ばれます。
楯ヶ崎が「熊野荒坂津」であると断定したのは江戸時代末期の本居内遠(もとおりうちとう)です。ここに「熊野荒坂津」の
石碑が建っているのはこれが根拠になっているからでしょう。内遠は寛政4年(1792)に名古屋の書店の息子に生まれ、15歳で本居宣長の著作に触れ、その後、天保2年(1831)宣長の養子大平(おおひら)の養子になります。本居大平(1756~1833)は伊勢国松坂(現松阪市)の町人の子に生まれ、13歳で宣長に入門。寛政11年(1799)に宣長の養子になり、宣長の実子春庭(はるにわ)の失明後は家督を継ぎます。内遠は大平の娘の藤子を妻に迎えます。したがって宣長にとって内遠は血はつながっていませんが孫になります。内遠は紀州藩主徳川斉順(なりゆき、1801~1846、紀州徳川第11代藩主。14代将軍家茂の父)に仕え、藩の命令で『紀伊続風土記』や『新撰紀州名所和歌集』の編纂に関わり、安政2年(1855)に江戸藩邸で亡くなっています。内遠がどういう根拠に基づいて、楯ヶ崎を神武の上陸地と断定したのかは分かりませんが、一つ考えられるのは、この地には神武の入水した二人の兄を祀る神社があるということではないかと思います。
内遠が関わった『紀伊続風土記』には、楯ヶ崎の名前の由来として、熊野灘に楯を並べたように見えることから名付けられたとあります。
ここ楯ヶ崎は、「花の窟(4)ー平安時代の記録」で紹介している増基法師も訪ねています。彼が書いた紀行文集『いほぬし』の、花の窟の記述の続きです。「四十九院のいはやのもとにいたる夜雪いみじうふり。風わりなくふけば。 うら風に我こけ衣ほしわひて身にふりつもる夜半の雪かな たてが崎といふ所あり。かものたヽかひしたる所とて。たてをついたるやうなるいはほどもあり。 打浪に滿ちくる汐のたヽかふをたてが崎とはいふにそ有ける」。増基は花の窟を後にして、四十九院の窟で雪に遭っています。四十九院は花の窟から楯ヶ崎に行く途中ですから、おそらく鬼ケ城でしょう。増基は実際に楯ヶ崎を見ているようです。多分船で行ったのでしょう。なかなか勇気があります。この場所は神の戦ったところだと書いています。神武とニシキトベの戦いが想起されます。土地の人から聞いたのでしょう。波が打ち寄せる様子を汐が戦っていると詠んでいるのも、この伝承が背景になっています。


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