花の窟ー御綱掛け神事(2)

10月2日の例大祭では、祭りと同時進行で有馬の旧道を「お白洲引き」が地元の幼稚園児、保育園児、婦人会によって行われます。これは神聖な白石を乗せた花車を引く行事で、道中踊りも行われます。そして毎年祭りの終わりでは餅撒きです。大勢の人がご利益ある餅を競って拾います。秋の大祭はこれで終わります。
私が花の窟を訪ねたのは初夏でした。目の前の岩壁に圧倒されました。岩の頂上部の2つの岩が人の顔に見えてこちらを見ているように見えました。御綱は残念ながら1本だけでしたが、綱からぶら下げられた幡(はた)は不思議な感じがして、取り付けられた花は枯れ枝が少し残っていましたが、扇子ははっきり見えました。那智の扇祭り、速玉と阿須賀神社の扇立祭と、扇に縁があります。窟の上から綱が引っ張られていて、どうやって登ったのかと不思議でしたが、裏道があるのですね。
この綱は長さ170m、イザナミが産んだ七柱の自然神、級長戸辺命(シナトベ、風の神)、少童命(ワタツミ、海の神)、句句廼馳命(ククノチ、木の神)、草野姫(カヤノヒメ、草の神)、軻遇突智命(カグツチ、火の神)、埴安神(ハニヤス、土の神)、罔象女(ミツハノメ、水の神)を意味する七本の縄が細い縄で結ばれて一本の綱になります。かなりの重さです。また綱からぶら下げられた三つの縄幡は、三流の幡(みながれのはた)と呼ばれ、岩側より、天照大神、月読尊(ツクヨミ)、素戔鳴尊の三貴子(さんきし)を表しているそうです。ここに季節の花と扇子が取り付けられます。これらの作業は地元の人によって行われます。御綱のもう一方の端はかつては御神木の松の木に結ばれていたそうですが、今は地面の支柱に結ばれます。この支柱には気がつきませんでした。
この三つの縄幡はかつて朝廷から献上されていたという伝承があるそうですが、これについては天保10年(1839)に完成した『紀伊続風土記(きいぞくふどき、きいしょくふどき)』に『村人いふ、錦の幡は毎年朝廷より献じ給ひしに何れの年にか熊野川洪水にて其幡を積みたる御舟破れしかば、祭日に至り俄にせんすべなく、縄にて幡の形を作りしとぞ。其後、錦の旗の事絶えて縄を用ふ(今花并壮車熊野川相須村の辺に絹巻と云ふあり破船の時、錦の幡の流れて其石にかゝりし故にその名ありといふ)。今村人の用ふる所は縄を編みて幡三流の形を造り、幡の下に種々の花を括り又扇を結びつけて長き縄を以て墓の上より前なる松の樹に高く掛け、三流の旗、窟の前に翻る。歌舞はなけれども「以花祭又用鼓吹幡旗祭」といふ故事を存することめづらしき祭事といふべし』。と書かれています。
引用が長くなりましたが、これについて章をあらためて説明します。


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