藤白神社の主祭神はニギハヤヒ(1)

和歌山県海南市藤白466にある「藤白(ふじしろ)神社」はニギハヤヒを祀る神社です。この神社がニギハヤヒを祀っているのは、ニギハヤヒを祖神とする穂積氏の嫡流の藤白鈴木氏が代々神職を務めたからです。
電車で和歌山駅から白浜方面に向かい、海南駅を過ぎると間もなく左手に藤白神社の看板が見えます。海南駅からは徒歩20分くらい、JRの高架に沿って行き、JRのガードをくぐると石段がありその上に鳥居がありますが、そのまま少し急な坂を上がった右側にも神社への入り口があり、鳥居が立っています。反対の左側には鈴木屋敷があります。石段を上がるのが正式な入り口ですが、坂を上がったところから境内を横切る参道は中世の熊野参詣道です。
藤白は藤代とも表記され、九十九王子の中で格式の高い五体王子の一つである「藤代王子」の旧址で、「藤代神社」、「藤白権現」、「藤代若一王子権現」とも呼ばれました。
主祭神は饒速日命、配祀神は天照大神、熊野坐神、熊野速玉神、熊野夫須美神、祓戸大神です。アマテラスは熊野では若一王子と呼ばれていました。「藤代若一王子権現」と呼ばれていたところから、アマテラスが主祭神であった時期もあるのでしょう。熊野坐神は、熊野本宮大社がかつて熊野坐神社と称していたところから本宮の祭神、家津美御子神。祓戸大神は明治時代に祓戸王子を合祀したことにより祀られています。祓戸王子は後述します。
藤白神社は熊野参詣が盛んな頃、熊野一の鳥居と言われました。この「一」はトップではなくファースト。つまり聖地である熊野への入り口という意味です。それが五体王子の一つ藤代王子です。そうなると神社の祭神は熊野の神ということが前面にでてきます。熊野参詣の貴族たちは藤代王子で、和歌の会や里神楽や相撲などで楽しんだようです。ここからいよいよ熊野まで苦行の旅が始まります。
藤白神社の創建年代は不詳だそうですが、伝えによると景行天皇の代とされます。社殿は斉明天皇の牟婁の湯(白浜町の湯崎)行幸の際に建てられたと言われます。斉明天皇のこの行幸は658年のことで、有間皇子に勧められたのがきっかけです。
和歌山県神社庁のサイトによると、聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を参らせ、熊野三山に皇子誕生を祈願させたところ、高野(たかの)皇女が御誕生。喜んだ光明皇后は神域を広め整備し、三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遙拝所と定めたところから、子授け、安産、子育ての守護神として崇められてきたとあり、また称徳天皇玉津島行幸に際して、熊野広浜供奉し、祖神である当社に詣で「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号して、以来「藤白王子」或いは「藤白若一王子権現社」とも呼ばれたとあります。さて、この記事の内容ですが、聖武天皇が玉津島神社のある和歌の浦に行幸したのが神亀(じんぎ)元年(724)10月、即位して8か月後のことです。その時に行基に参らせて皇子誕生を祈ったところ高野皇女が誕生したとあります。高野皇女は即位して孝謙天皇となり、譲位した後にもう一度即位してからは称徳天皇となります。同一人物です。孝謙天皇の誕生は718年。聖武天皇の行幸の6年前です。この時代になると記録もはっきりしていますから、それぞれの年代には誤りはありません。称徳天皇も和歌の浦に行幸していますから、混同されている部分があるのかもしれません。後で述べますが、藤白神社には子授け、子育ての守護神である子守楠神社がありますから、その由来として語られたのかもしれません。ただ孝謙天皇は熊野の神とは関係があったようで、熊野の神に「日本第一大霊験所」の称号を授けたのは孝謙天皇だと言われています。称徳天皇の行幸に供奉した熊野広浜という人物はよくわかりません。ニギハヤヒを祖神としていますから、熊野三党につながる人物でしょう。また「権現」という言葉がありますが、権現は平安時代後期の神仏習合により確立された概念であり、それにより若一王子という祭神も登場しますから、奈良時代にはどちらの言葉もなかったはずです。


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