藤白神社の主祭神はニギハヤヒ(2)

藤白神社は平安時代後期からの熊野詣での盛行で賑わいます。ただ戦国時代になると戦乱に巻き込まれ社殿が焼失します。江戸時代になってだんだんと復興されてきます。現在の本殿は徳川頼宣の命により寛文3年(1663)に再建されたものです。『紀伊続風土記』には、「藤白若一王子権現社」と記載され、和歌山霊蓋院末の寺院が別当をつとめていました。明治時代になると神仏分離•廃仏毀釈が行われるなかで、当社にあった熊野権現の本地仏は被害を免れました。旧社格制度においてまず村社となり、その後郷社、県社と昇格しました。
熊野詣でのルートとして重要な場所に位置したということの表れとして、現在でも当社は阪和道の海南インターからすぐのところにあります。インターを海南市街方面に出て、国道42号線に合流して次の信号を右折してすぐの脇道に入り、道なりに進みJRのガードをくぐって坂を上がると右手に広い駐車場があります。ただガードの道幅が狭いので注意がいります。
藤白神社の境内に入りますと大きなクスノキが目に入ります。そこには子守楠神社が祀られています。祭神は熊野杼樟日命(クマノクスビ)です。神名の「杼(ちょ)」は「ドングリ」、「樟」は「クスノキ」。いずれも木にちなんでいます。この千年楠は、子供が生まれたときここにお参りして、楠、藤、熊の名を授かると長生きして出世すると言われ、畿内各地からお参りに来ました。それによって名付けられた人に南方熊楠がいます。彼は熊と楠と二つもついていますから効果満点だったようです。長命(74歳。当時としたら長生きの部類に入るのではないでしょうか)と出世(学者としての名声)を得ました。私の祖母の兄も名前に藤がついていましたから、百歳近くまで生きました。皆さんも子供が生まれたら、ここにお参りして名前を授かりませんか。
駐車場から境内に入ると、左手に授与所があり、そこを抜けると拝殿があります。境内社は拝殿に向かって左側に一つの覆屋の中に祇園神社、秋葉神社、住吉神社、塩釜神社があり、右側には藤白王子権現本堂かあります。権現堂とも呼ばれ、ここに廃仏毀釈の嵐を通り抜けた仏像が安置されています。熊野三山の本地仏の阿弥陀如来、薬師如来、千手観音、それに若一権現の十一面観音です。平安時代後期の作で和歌山県の文化財に指定されています。堂々とした仏像です。神仏分離で神社から仏教関連のものはなくなってしまいましたが、こうして神社に仏像が祀られているのは熊野権現らしいです。少し離れて藤白坂の入り口に有間皇子神社があります。有間皇子は悲劇の皇子として知られていますが、藤白坂で命を落としています。ほかに恵比須神社、もと市内の名高(なたか)蓬莱丁にあったのを明治に遷したものです。あとは巳神社、石が祀られています。
配祀神の祓戸大神ですが、明治42年(1909)に祓戸王子を合祀したものです。祓戸王子は室町時代には鳥居神社と呼ばれ、またこの辺りの地名も鳥居と言います。古くは熊野一の鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る前に心身を清めるために祓の神が祀られたということになります。なお鳥居は天文18(1549)年に失われました。場所は海南市鳥居257ー1。


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