花の窟(4)ー平安時代の記録

平安時代中頃の人だと言われる増基法師(ぞうきほうし)の紀行文『いほぬし(庵主)』に、当時の花の窟の記述があります。
「この山のありさま。人にいふべきにあらず。あはれにたうとし。かへるとて。そこにかひひらふとて袖のぬれければ。 藤衣なきさによするうつせ貝ひらふたもとはかつそ濡ける この濱の人。はなのいはやのもとまでつきぬ。見ればやがて岩屋の山なる中をうがちて經をこめ奉たるなりけり。これはみろくぼとけの出給はんよにとり出たてまつらんとする經なり。天人つねにくだりてくやうし奉るといふ。げに見奉れば。この世ににたる所にもあらず。そとばのこけにうづもれたるなどあり。かたはらにわうじのいはやといふあり。たゞ松のかぎりある山也。その中にいとこきもみぢなどもあり。むげに神の山と見ゆ。 法こめてたつの朝をまつ程は秋の名こりそ久しかりける 夕日に色まさりていみじうおかし。 心あるありまの浦のうら風はわきて木の葉も残す有けり 天人のおりてくやうし奉るを思ひて。 天津人いはほをなつる袂にや法のちりをはうちはらふ覧」。
増基法師は10世紀前半から11世紀初頭にかけて活動した歌人です。彼は京都を出発して石清水(石清水八幡宮)•住吉社(住吉大社)に詣で、紀伊国に入ると、吹上の浜、鹿瀬(ししがせ)山、岩代の野、南部(みなべ)の浜、牟婁の湊、水飲を通って御山(本宮)に着き、その後熊野川河口の御舟島に行き、続いて「たた(なち)山の滝」を訪ねています。どうやら速玉大社には参詣していないようです。御舟島で満足したのでしょうか。そして伊勢に行く途中で花の窟を訪ねます。
七里御浜で貝がらを拾って着物の袖を濡らしたとありますから、結構楽しんでいますね。この紀行文の中で注目されるのは、岩に穴を開けて、その中にお経を納めており、その目的は弥勒菩薩がこの世に出現したときのためだとあります。これは彼が実際にその様子を見て、その目的を聞いたことが元になっているということでしょう。お経の名前は書いていませんが、熊野は法華経信仰が盛んでしたから、法華経が主体だったと思われます。弥勒菩薩(マイトレーヤ)は釈迦牟尼仏の死後56億7千万年の未来にこの世に現れ悟りを開き人々を救済すると言われ、それまでは兜率天(とそつてん)で、修行または説法しているとされます。そういう想像を絶する未来のために納経をしているということになります。さらにこのお経を常に天人が供養しているとあります。現実に天人が供養することはあり得ませんが、ここはイザナミの墓ですから、常にイザナミが見守っているということでしょうね。お経を納めた場所を経塚といい、熊野では那智と本宮の備崎(そなえざき)に経塚があります。花の窟については経塚が発見されたという記事が見当たりません。御神体なので調査はできないのでしょうか。カグツチの墓のことも書いています。「わうじ(王子)のいはや」というのがそれです。
増基法師も花の窟に感動しているのが伝わってきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?