御生神事の起源(4)ー神事の中絶と再興

「御生神事の起源(3)」で、『小右記』にあるように下鴨神社が御蔭山のある小野郷やそれに続く栗栖野郷(現在の岩倉や松ヶ崎)を下鴨神社の所領として朝廷に認めてもらう為に訴えを起こしましたが、朝廷から却下されました。その理由として考えられるのは御蔭山での祭祀は磐座祭祀という原始的な祭祀であり、その祭祀も秘儀であったために朝廷の理解を得られなかったからと考えられると書きました。                平安時代の御蔭神社の実態について、『山槐記(さんかいき)』応保元年(1161)8月6日条に下鴨神社の6回目の仮遷宮の記述があり、当時下鴨神社の禰宜であった祐直(すけなお)の社殿の記録『神殿舎屋之事等』に御蔭神社の名前があると書いています。ここに書かれている御蔭神社は磐座祭祀の神社として拝殿だけで本殿がなかったと考えられます。その理由として『鴨縣纂書(かもあがたさんしょ)』に「御蔭宮日枝山ノ西麓ニアリ拝殿鳥居一口、祐直卿記ニ御影社トアリ」との記述があります。日枝山は比叡山のことです。『鴨縣纂書』では御蔭宮は拝殿と鳥居だけで、この神社は祐直の記録『神殿舎屋之事等』に書かれている御影社のことであるとしていることからそれが根拠になります。            『山槐記』は中山忠親(ただちか)の日記。中山忠親(1131~1195)は藤原北家の藤原忠宗(ただむね)の三男で、中山家の始祖。官位は正二位内大臣。書名は家の号「中山」と大臣家の唐名の「槐門」から。日記に記された時期は1151から1194年で、平家の勃興から全盛そして滅亡の時期にあたります。              『鴨縣纂書』は『烏邑纂書』ともいい、明和7年(1764)に当時の禰宜俊春が着手し、その子の俊永の二代にわたり、鴨伝承や歴史的資料、記録類を集成して寛政11年(1799)に完成。         御蔭神社の祭祀は永正十四年(1517)に中断して、元禄七年(1694)に復興されます。約180年近く途絶したことになります。下鴨神社宮司の新木直人さんの著書『葵祭の始源の祭り御生神事』には、「湧水の磐座、船つなぎ岩における御生神事の祭祀は、永正14年(1517)に中絶していたのが元禄7年(1694)に再顕になって程なく、宝永元年(1704)のはじめごろ御蔭社本殿の祭事と習合した」とあります。すなわち磐座での祭祀が元禄7年の再興から10年で、本殿祭祀と合体したということになります。ということは再興時点では磐座祭祀と本殿祭祀が別々に行われていたことになります。平安時代は先に書いたように磐座祭祀でしたが、それが戦国時代の混乱で中絶して、平和な元禄時代に復興されたときに、一旦は中絶前の姿で復活し、それが10年後に本殿祭祀と合体したということは、鎌倉時代から中絶までの時期に平安時代にはなかった本殿が建てられ、磐座祭祀と本殿祭祀が行われていたということになります。         そして磐座祭祀と本殿祭祀が合体したことで、『御蔭山神事次第』以降の神事の記録は御蔭神社本殿での神事の記録だけになります。            御蔭神社での祭祀は永正十四年に中絶したと言われていますが、『賀茂史略』の永正四年四月二十一日の条に、「以無要脚不行御蔭山神事」とあり、永正四年(1507)には御蔭山神事が行われなかったとありますから、中絶したのは永正四年とも考えられます。        『御蔭山神事次第』は正式には『葵祭列書並御蔭山神事次第(あおいまつりれつしょならびにみかげやまじんじしだい)』といい、中御門宣顕(なかみかどのぶあき)が元禄9年(1696)にまとめたもの。宮内庁書陵部蔵。宣顕(1662~1740)は従二位権大納言。              『賀茂史略』は上賀茂神社の社家の編纂した編年体資料。下鴨神社の社家が編纂した編年体資料は『賀茂史綱』。


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