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一話

歩きにくい。右足首が内側に折れ曲がっているから時間がかかる。朝の通学路。じゃれながら学校に向かう人たちが羨ましい。同じように友達を追いかけたり歩道と車道を隔てるブロックの上を歩いたりしたい。誰もが当たり前にやっている自転車通学だって憧れる。自由に移動できるというのはなによりも幸せなことなのだ。

「おはよう」

琴子が声をかけてくる。のろのろ歩く僕を見つけて後ろから追いかけて来た。どんなに早く家を出ても学校に着くまでに追いつかれてしまう。

「おはよう。今日も暑いね」

七月になっていた。校門にたどり着くまでにあと何匹蝉の声を聞くのだろう。汗が滴りシャツに染みていくのがわかる。白い乗用車が僕たちを追い抜いていく。ボディが日光を反射して目が眩む。健康な足なら十五分の通学。でも僕にとっては一日の大半を消耗する過酷な試練だ。

「車で送ってもらえばいいのに」と琴子は言う。

そうしてくれればどんなに楽だろう。弱りきった体で教室の硬い椅子に座り続けることは重大な事件を起こした囚人に対する拷問に似ている。でも誰も車で送ってはくれない。家に車がないからだ。お母さんは僕を見送ってから仕事に行く。自転車で駅まで行ってモノレールに乗り門真にあるパナソニックの工場で働く。お父さんはいない。吹田に引っ越してきて二人で市営住宅で暮らしている。

唐突に「ごめん」と琴子が謝る。

僕の事情を思い出したのだ。うちは両親が離婚している。大阪市内にいたけれど住むところがなくなってこっちに越してきた。知り合いのいない土地。中学は転校した。先生から頼まれて琴子は僕によくしてくれる。彼女は両親と弟の四人家族で南千里のマンションに住んでいる。近くには公園とイチョウ並木があって休日は家族連れで賑わう。

僕が生まれた所とは大違いだ。ここでは緑とお金の余裕が感じられる。同じ大阪でも場所が違えば空気が違うし景色が違うのだ。一戸建ては洋風で窓辺に花が活けてある。ガレージには外国車が二台停めてあって犬が走り回れる広い庭が付いている。そしてセコムのセキュリティに守られている。

「気にしないで。うちはそれなりにやってるから」琴子を見て心配いらない、と笑う。でも彼女は自分の言ったことを気にしているようだった。僕は続ける。

「最初は土地の違いにショックを受けたし、ここでやっていけるかわらかなかったけど、いまは馴れたよ。お母さんは働いているし住むところもある。だから大丈夫」

「何でも言ってね。困ってたら先生とかに相談するし嫌なことなら言わなくてもいいしさっきは変な意味で言ったんじゃないからさ」

琴子は親切だ。人がやりたがらないことも自分から手をあげてやろうとする。先生が一緒に登校してくれる生徒を探したとき、それに応えたのは琴子だけだった。彼女は僕の速度に合わせて歩いてくれる。煩わしいだろうに、そんな顔を見せない。

学校に着く。美化委員が花壇に水をやり体育の先生が挨拶をする。僕は琴子の肩を借りて正面玄関に続く階段を上がり校舎に入る。下駄箱で靴を替えていた岬が僕らに気づいて話しかけてくる。琴子は彼女におはようと返事をする。

「ほんま暑いなぁ」

岬はブラウスをつまんでパタパタ扇ぎながら校内用スリッパに履き替えて僕にもおはようと言う。おはよう。

「わ、岬、すごい焼けてるね」琴子が言う。

「せやろ。昨日の練習試合で一気に焼けてもうてん。日曜の天気、ほんまヤバかったで」

岬は肩にテニスバッグを掛けている。快活で人を元気にする話し方だ。

「朝練大変だね」

「ん、そうでもないで。なんやかんやで好きでテニスやってるし朝から体動かすと頭すっきりするしな。山崎先生のスパルタと夏の暑さは勘弁して欲しいけど」

確かにねぇ、と琴子は笑う。

「わたしのとこも朝練やるのかな。早起き苦手なんだよね」

「いいんちゃうん?松本君に朝から会えるし。バレー部、男子は朝練やってんやろ」

「ちょっと、岬、松本君はいいんだって。いま朝練の話!」

「いーや、琴子、わかってんねん。いいからいいから」

戯れる金魚のように彼女たちは進む。僕は会話に入れない。共通の話題がないから二人との間に距離ができる。階段に来たところで僕は立ち止まる。手すりが付いているから琴子には自分で教室まで行けることを伝える。彼女は僕の様子を見て済まなそうにしつつ大丈夫?と聞く。

「ごめん、そうやった」と岬が言う。どちらにも悪気がないことを知っている。だからこそ先に行ってほしかった。

「ここからは自分でできるよ。いつもの階段だから平気だよ」

琴子は後でね、と言って岬と教室に向かう。何度かこちらを振り返りながら階段を上がっていく。僕は彼女達が見えなくなるのを待ってからゆっくりと登り始める。手すりを掴み左足を持ち上げて一段。それから左膝を少しだけ曲げて腕の力を使って一気に右足を引き上げる。不格好な登りかた。階段をすべて登り終えたところでチャイムが鳴る。二段飛ばしで駆けあがっていく生徒がいて、その慌ただしい足音が耳の奥に残った。

教室は賑やかだ。立ち歩く者、机の上に座り足を組む者、興奮して手を打ち鳴らす者。中学生が大人しくしているはずがないのだ。生徒会が提案した朝の読書時間は数日でこの状態。けど僕は席について鞄から文庫を取り出す。舞城王太郎『阿修羅ガール』を読む。騒いでいる方が多いけど、ちゃんと静かに本を読んでる人もいる。読書の時間を無駄だとは思わない。本を読むことは別に恥ずかしいことじゃないのだ。

ページをめくる。喧騒と文脈の間に立ち、物語の行方を追う。そのうち僕のいる世界が混沌とした物語の世界と変わらなく思えてくる。言葉が紙の上で動き回り、自由な形で踊りだす。ついて来れるか?言葉が話しかけてくる。僕は振り落とされないようにしがみつく。その格闘の最中だ、後ろから椅子を蹴る足。

「おい、なに読んでんねん」

僕は振り向きざまに答える。「舞城王太郎」

「知らんなぁ」

「そっちは?」

「黒い雨」

牧野が言う。赤毛は整髪料で固められパンクロックのように刺々しい。首にはコンドルの羽根を象ったアクセサリー。片方だけ耳にいれたイヤホンから変則的なリズムが流れる。

「どこまで読んだ?」

「日記を書き写しはじめたところ。淡々としてんな」

「それ、派手な物語じゃないからね」

「なんか俺の知ってる戦争ものとちゃうわ。火傷とか瓦礫とか食べるもんないとか、そんなんが出てくんのかと思ってた」

「僕もそう思った。戦争ものってどれだけ悲惨かを競うだけでしょ。でもこの作品は違う。普通に生きて普通に死んでく人の話だ」

牧野は無造作にページをめくり表紙を見ながら言う「でもこれ、あんまおもんないわ」

僕は残念に思う。それから返事をする。

まなざしだと思う。

「まなざし?」

「世界を見る視点はひとつじゃない。見方が違えば僕たちは世界の別の面を知ることになる。きっとそういう話なんだよ」

牧野は口笛を吹きながらスキップするサラリーマンを見たように不思議そうな顔をする。

「あかん、わからん。おまえこれ読んでそんなこと考えたん?」

そうだと言うと牧野はようわからんけど頑張れよと言い机に突っ伏して眠ってしまった。

「次は舞城を貸すよ」

僕は向き直り読書を再開する。二行読んだところで放送が入る。「本日の読書時間は終了です。日々の読書を通して読む力、理解する力を養いましょう。本の選択は自由です。明日も読書を楽しみましょう」

放送が終わると先生が教室に入ってくる。手には鳥かご。中には二つの頭をもつ紫色の鳥がいた。

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