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ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む

その12
さて、モノをactorとして社会関係を考える社会学つまりはANT理論で社会を見るとは、社会の権力関係を組み替えていく方法でもあることをここで考えていきたい。そもそも社会を考えるときになぜ社会性の社会学者は人間とモノの関係を検討の対象からはずしてきたのか。人間のモノとの関係はデザインの問題として、たとえばドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン』とか『人を賢くする道具』においてかなり詳しく調べられている。社会にある権力関係はモノと人の関係に明確に表れている。モノをactorとして見るやいなや社会の中にある不平等や支配関係は明確ではないか?なぜ19世紀の社会学者はモノの研究をエンジニアや科学者に任せた。社会性の社会学者はモノそのものを議論しないで、モノの持つ「意味」「象徴」「意図」「言語」を研究してきたのである。デザイナーが何かモノをデザインするときには、どのように使うのか、何のために使うのかといった「人間的な側面」を考える必要がある。だが、それは社会学の領域に越境した行為となる。したがって、ノーマンが批判したように人間的な側面に踏み込まないデザイナーが多く生まれてしまう。一方でものが作り出す社会的関係にかんして、モノの作用(エージェンシー)の側面から議論をしないのが社会性の社会学の仕事となってしまうのだ。モノが媒介項として社会関係に影響を与える側面への研究は社会学者もデザイナー・エンジニア・科学者も行わない、ということになる。これはデカルトが思惟実体(re cogitants)をいわゆる物質である延長実体(res extensa)から分離した考えをそのまま踏襲してるのだ。

この結果、参与子としてのモノの役割は次の3つに限られてしまう。

1)マルクス流に社会諸関係を規定する「物質的下部構造」とする
2)ブルデューなどの批判社会学のしてんからエージェントとしてのモノを「社会的な階級的相違を他のグループからちがうものとして識別する「鏡」とする、か

3)ゴッフマンの考える社会的アクターがしような役を演じるときの舞台の背景とするかになってしまう。


これでは社会構造がどのように生まれてくるのかをモノと人間の相関から説明することはできない。

ところが、実際過去の社会学者がのこした記録のなかにはモノが人間と関係をもって社会を変えていく記録が残されているときもある。マルクスの『資本論』で語られている物神崇拝の記録は、ラトゥールの英語の文章を引用するなら、こうだ。


Even as textural entities, objects overflow their makers, intermediaries become mediators.

つまり、マルクスが『資本論』で描いたことは、工場で生み出されたモノが作り手をはなれて、actorである人間とモノのactorとして関係性を持ち、中間項から媒介子となっていったのである。このあたり割と研究が最近ではすすんでいる。


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支配がどのようにうみだされていくのか。ANTはモノが媒介子であった状態を記録することで、権力や支配と戦うことができる。支配の状況とりわけ支配されている人を批判するような社会学ではなく、モノが媒介子であった状況を暴き出すことでANTは社会の仕組みを変えていくことができる。そのためにはANT理論理解の第4の障害を乗り越えなくてはいけない。次回からはこの問題について検討していくことにする。

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