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ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む



第六回

さて、ANT理論を理解するときの第1の障害は社会を存在しているものとみることであって、社会は人々をつなぎ合わせることで生成されていて、つねにその生成作業はおこなわれていて、我々が観察できるのはそのプロセスの痕跡だ、ということである。安定した社会の形はなく、そのような形にみえるような揺らいでいる痕跡だけが我々は観察できる。その痕跡を痕跡としてみていくことでANT理論は理解できる、というものであった。痕跡を生み続ける活動をperformativeと呼び、それは活動が終わるとともに観察できなくなる、とするのも非常に大切な見識である。


ANTをわからなくしている我々のものの見方は5つあり、第二のものの見方の説明に移っていきたい。それは行為はそれ自体で起こっているのではなくて、他者とのやり取りが行為なので、そこまで視野を広げなくてはいけない、ということである。それをAction is overtakenと表現している。これはまたわかりにくい表現だ。overtakeとは遅い車を追い抜くときの動詞だ。Action つまりあるactorのactionが、別のactorのactionに追い抜かれる、というのが言葉の意味だ。だが、もうすこし考えてみると、あるactionは何らかのものに突き動かされている(overtaken)と考えることもできる。感情に負けたとか突き動かされたといったような意味である。ANT理論では社会的なものをみとめていないのだから、あるactorのactionがたとえば資本主義の精神によって突き動かされた、という普通の社会学的な表現は表現はANTにはなじまない。ANTでは人間のアクションはなにかに突き動かされているとは見ない。では、その「何か」はなにか?ということである。

我々は様々な要因がくみあわさった「社会的な」ものによって行動をしている。この表現には問題ないとラトゥールは言う。だが、「社会的なもの」が生物学的、物理的、経済的と同じような意味での社会的だとすると、「社会的」なるものにアクションが突き動かされているという見方は問題となる。ここが混同されるのでANT議論は展開しない、とラトゥールは述べる。なぜ、あの人の行動は、あの人行動はその人の環境の中にある物理的、生物的、経済的要因が混ぜ合わされて起こっているのだ、という説明をしないのだろうか?

さて、ここでANT理論はaction, actorにくわえてagentという概念を登場させる。またそれにあわせてagencyという概念も登場させる。このあたりわかりにくいのだが、agentはなんらかのactionを行うあるいは行うことを許可されたactorであり、agneyはactor あるいはagentに何らかのactionを起こさせる力と理解しておこう。

私たちが何か行動をしようとしているときに、それを押しとどめる、つまりはagentになれない、何らかの要因がある。この直感が社会学者を虜にした。いままで見てきた例をあげるなら。デュルケムやマルクスは社会統計が示す特徴を社会的な実体としてみて、それがactorに何らかの活動をさせる力つまりagencyとなったと考えたのだ。その要因は群衆
(crowds)、大衆(masses)、統計的資料 (statistical means)、(神の)見えない手(invivisible hands)、だったり無意識の衝動( unconscious drives)、といった広く人々にもとめられた直感的概念だった。我々のactionはこうした「実体」に突き動かされている、つまりaction is overtakenと考えたのだ。これが社会を実態とみた第一の誤りに次ぐ、第二の誤りである。なんらかの原因が直接わかりやすく(transparent)actionを説明することはな
い。Actionとはさまざまなagencyがつながり、からまり、その結果うまれるのであって、actionについてしりたければ、このこんがらがった状態を丁寧に解きほぐしていく必要があるのだ。それをおこなうのがANT理論なのである。(続く)



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