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メタバース 徹底して解るまで その13

Ball 第2章 混乱と不確かさ confusion and uncertainty

メタバースという言葉が混乱しているのはデジタルメディアの業界のリーダーが自分の会社のビジネスモデルにあわせて説明しているためである。

たとえばマイクロソフトのCEO Nadellaはメタバースを「世界をアプリで描かれたキャンバスにする」と述べている。Windowsを拡大してAzureをクラウドとして提供して、コミュニケーションのツールとしてMicrosoft Teamsを提供して、ゲーミングプラットフォームとしてXboxを提供して、メタバースとしては最近買収したマインクラフトと昔から独自に展開してきたマイクロソフトフライトシュミレーターを使う。

Facebook のザッカーバークは没入型ヴァーチャルリアリティをつかい、Oculusでその世界に没入してソーシャルネットワークサービスを行おうとしている。Epic の提案するメタバースは、友達と自由におしゃべりをして、ブランドのお洋服を着ておしゃべりをしたりすごすことであり、Fortniteにおいて提供されている。これはFacebookで提供されているような広告だらけの世界とは違うとEpic CEOのSweeneyは述べる。

中国の大手デジタル企業であるTencent、Alibabaなどもメタバースへの参入を検討している。(Epic の株の相当部分はTencentが持っている)。だが、どの企業も自分の力でメタバースを経験していないのではないか?だが、大切なことはメタバースを実現する技術は現在利用可能な状態にある。だが、技術者のコミュニティはメタバースを構成する基本的な技術について紛糾した議論を続けており、VRにARを含めるべきかとかVRはVRゴーグルのような没入環境でのみ経験できるのか、とかの議論が続く。そして、あまりにも多くの種類の暗号通貨がブロックチェーンによって作られている。メタバースが今日のインターネットの分散化だとすると、プラットフォームの議論はなりたたないし、利用者のデータをプラットフォームが所有するという前提は成り立たない。

メタバースは一社によってのみ運営されるのではメタバースではない、という意見をUnityのCEOであるJohn Riccitielleは持っているという。Unityはクロスプラットフォームのエンジンを提供していると言うのである。もちろん、ザッカーバークはメタバースはひとつだという。インターネットはthe internetであって、an internetでもthe internetsでもない、とするのだ。

メタバースの説明で最近よく使われるのは2011年のErnest ClineのReady Payer Oneである。半年ほどまえに筆者もメタバースの説明をするときにこのイメージは利用したことがある。

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ここで定義されるメタバースはWilliam Burns IIIが述べているものでVRなどの世界の学術論文では20年以上まえからこの言葉が使われていた。

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彼によると、メタバースとは、仮想的に拡張された物理的現実と、物理的に持続する仮想空間が融合してできた集合的な仮想共有空間であり、すべての仮想世界、拡張現実、インターネットの集合体を含む。メタバースという言葉は、「メタ(beyond)」と「ユニバース(universe)」という接頭語を組み合わせたもので、未来のインターネットの概念を表すのに使われる。この概念は、持続的に共有される3D仮想空間で構成され、認識された仮想宇宙にリンクされている、とある。最近はlikedinでこのあたりの説明を繰り返している。

この定義はStephensonのSnow Crashを継承するものだが、2011年に小説が出版され、2018年にはスピルバークによって映画化されて我々の想像力のなかにメタバースのイメージをつくったといってよい。

Ballはここで描かれるメタバースのイメージを1990年代のインターネットのイメージと比べている。当時「情報スーパーハイウェイ」や「World Wide Web」の上をキーボードとマウスで「サーフィンしよう」と言っていたわけだ。おなじように、ただし今回は3D空間で、というわけだ。25年たって振り返ってみると、このときのイメージは貧困でどのような世界がくるのか、に関しては人々の間に誤解を生んだ。リアルと仮想の世界を悪の技術資本主義者が支配する帝国を破壊するというストーリーもチープならセコンドライフが次の世界を作ると言われていたが、現在では小規模な愛好者だけの世界に縮小している現実も説明しない。このような世界の可能性を見せるのは現在のインターネットの巨大企業が政府から独占禁止法で訴えられるのをさけるためではないかといううがった意見もある。このような視線からメタバースを考えることはあまりないので、ワシントンポストの記事を紹介しておこう。

”How Facebook’s ‘metaverse’ became a political strategy in Washington
With a buzzy push for next-wave virtual reality hardware, the tech giant is trying to outrun its mounting woes.”
By Elizabeth Dwoskin, Cat Zakrzewski and Nick Miroff
September 24, 2021 

そもそもメタの発表も唐突だった。2021年、フェイスブックは多くの批判にさらされていた。誤報の拡散、プライバシーの乱用、競争の圧殺、民主主義の弱体化などでフェイスブックブランドは大きく毀損されていた。回復を狙って選択されたのが仮想世界、「メタバース」だ。メタバースでは、人々はゲームをしたり、暗号通貨の支払いをやり取りしたり、会議に参加したりすることができる。だが、Facebookにとってそれは、Facebookが再びクールなブランドになるためだった。

一方で、これは政治的な戦略でもある。連邦政府で独占禁止法の政策をたてている人にむけて、政策立案者の間で会社の評判を回復させ、次世代インターネット技術の規制を逃れるためにキャンペーンだというのだ。

フェイスブックはシンクタンクと会合し、来るべき仮想世界のための標準やプロトコルの作成について議論しており、これによりフェイスブックは、連邦取引委員会が昨年起こした大規模な反トラスト法違反訴訟から話題をそらすことができる。Facebookのグローバルアフェアーズ&コミュニケーション担当副社長であるニック・クレッグとFacebookの運営責任者であるシェリル・サンドバーグは、ザッカーバーグに代わって、ワシントンにおける対応をおこなっており、ザッカーバーグは新しい最高技術責任者(CTO)アンドリュー・ボズワースとともにFacebookをソーシャルメディア企業から未来型技術プロバイダーへと転換させようとしているという。

ハーバード大学メディア・政治・公共政策研究所のジョアン・ドノバン研究員は、
「技術を新鮮で新しく、クールなものに見せかけることができれば、規制を回避することができる。そして、政府がそれに追いつくまでの数年間は、それで防衛することができるのです」

と述べる。

FacebookのスポークスマンKevin McAlister氏は、同社は数年前にバーチャルリアリティに大きく賭けていたと語った。

我々は、それがモバイルインターネットの後継であるため、メタバースの構築を支援することに注力しています "と彼は声明で述べている。「これは評判ではなく、基礎的なものです。責任を持って行いたいので、政策立案者、学者、パートナー、その他の専門家と今話しているところです。"

現実にはこうした努力にもかかわらず、フェイスブックは議会での反トラスト法案、8月にFTCが再提訴した反トラスト法、そしてソーシャルメディア企業のビジネスモデルや製品を弱体化させかねない欧州やインドでの差し迫った法律などの対応に直面している。この10年足らずの間に、Facebookはアメリカのイノベーションの象徴として賞賛された会社から、テクノロジー・プラットフォームがいかに多くの社会的害悪を生み出してきたかの象徴に成り下がった。このような事実の発覚により、世界中でテック業界に対する法律や訴訟が相次いでいる。

2016年の大統領選挙で、Facebookがケンブリッジ・アナリティカに利用されて、プライバシースキャンダルがおた。トランプ政権時代、ザッカーバーグは共和党との関係も改善せず、一方で盟友だった民主党とも距離ができた。Facebookのプラットフォーム上で極右過激派が活動し、選挙の嘘や誤報、プライバシー侵害が蔓延して、多くの民主党議員が同社に反感を抱くようになった。フェイスブックはバイデン政権での受けの良さを期待したが、コロナウイルスの誤報の拡散をめぐってホワイトハウスとケンカになっている。

こんな状況の中で、メタバースのコンセプトは、同社のこれまでの自主規制の取り組みの一部とも符合する。2019年には、トランプ氏の活動停止など、コンテンツの決定を裁定する独立した監視委員会を設立した。

フェイスブックの政策チームのメンバーは、「次」のインターネットのためのルールづくりのパートナーとなりうるシンクタンクや他の企業にメタバースのアイデアを早期に紹介することで、こうした敵意を克服できるかもしれないと考えている。匿名を条件にワシントンポストの記者に数人の関係者が話をしており、Facebookのワシントンチームは、FTCの訴訟や最近ワシントンで提案された反トラスト法関連の法案など、反トラスト法から話をそらすことを明示的に命じられているという。

さて、破壊的イノベーションの理論からすると、政府の介入がなくても巨大になった製品やサービスはちっぽけなイノベーションが滅ぼしてしまうことがある。EpicがAppleやGoogleに対して行っている裁判は、EpicがAppleやGoogleが得ている巨大な利益は不当だ、と主張するもので、彼が考える来るべきネット宇宙つまりメタバースの実現を邪魔する、というものなのである。 Facebookの主張とは大分違うのだ。

破壊を生むには混乱は必要なことである ( Confusion as a Necessary Feature of Disruption)

さて、ここまでをふまえて、歴史の針を25年ほど前に戻したい。wikipediaはインターネットを次のように2000年代の半ばに定義してそれはいまも当時とそれほど変わっていない。特にインターネットプロトコールスイート(Internet Protocol Suite)はTCP/IPと呼ばれネットワークとネットワーク、さらにディバイスをつないでいくものとされた。以下、wikipedia internetから必要なところをまとめておいた。

(ところで、wikipediaの英語のinternetと日本語のインターネットでは微妙に表現が異なる。日本の状況をいれて説明しているということもあるが、切り口が大分違う。では英語が信頼できるかというと、wikiから、サイテーションが明らかでないところがあるとウォーニングが出ていたりする。まあ歴史がさだまらないところも破壊的イノベーションとしてのインターネットらしいとも言える。以下は英語wikiのinternetをまとめたものである。)

現在のIPネットワーキングは、1960年代と1970年代に発展し始めたLocal Area Network (LAN) とインターネットの開発が統合されたものである。それは1989年のティム・バーナーズ=リーによるWorld Wide Webの発明と共にコンピュータ及びコンピュータネットワークに革命をもたらした。

インターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)は、1970年代初期に米国国防高等研究計画局 (DARPA) による研究から登場した。1960年代後半に先駆的なARPANETの構築後、DARPAはその他様々なデータ転送技術における研究を開始した。1972年、ロバート・カーン (Robert E. Kahn) はDARPA情報処理技術室 (IPTO: Information Processing Technology Office) に雇われた。そこで彼は衛星パケット網と地上の無線パケット網の研究に取り組み、それらを横断して通信ができる事の価値を認識した。1973年春、ヴィントン・サーフ(Vinton Cerf): その当時既に完成していたARPANET Network Control Program (NCP) プロトコルの開発者)は、ARPANETの次世代プロトコルを設計する事を目標に、オープン・アーキテクチャ相互接続モデルに取り組むためにカーンと合流した。

(中略)

ネットワークの役割を最低限まで減らす事で、それらの特性が何であろうとも、ほぼ全てのネットワークを統合できるようになった。それによりカーンの当初の問題も解決した。よく言われる事は、TCP/IP(サーフとカーンの取り組みの最終成果)は「two tin cans and a string」(2つの空き缶と1本の紐、すなわち糸電話)でも機能するだろうという事である。

(中略)

ルーターと呼ばれるコンピュータはそれぞれのネットワークにインタフェースを提供し、ネットワーク間で行き来するパケットを転送する。

その着想は1973〜74年度にスタンフォード大学のサーフ ネットワーク研究グループによってより詳細な構造が作り上げられ、最初のTCP/IP仕様 RFC 675 を生み出した。

(中略)

その後、異なったハードウェア上の実用プロトコルを開発するため、DARPAはBBNテクノロジーズ、スタンフォード大学およびユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンと契約した。4バージョンが開発された。TCP v1、TCP v2、1978年春にはTCP v3とIP v3に分離、そして安定版のTCP/IP v4 - これは今日のインターネットでもまだ使われる標準プロトコルである。

1975年、スタンフォード大学とユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン間で、2拠点のTCP/IP通信試験が実施された。1977年11月、アメリカ、イギリス、ノルウェー間で、3拠点のTCP/IP試験が実施された。1978年から1983年にかけて、複数の研究施設でその他いくつかのTCP/IPの試作が開発された。1983年1月1日、ARPANETはTCP/IPへ完全に切り替えられた。

1982年3月、アメリカ国防総省は全ての軍用コンピュータ網のためにTCP/IP標準を作成した。

だがTCP/IPがどのようにインターネット世界を変えていったかは、2021年にアップデートされたwikipediaのインターネットの項目を読むと、明確である。以下、英語版のwikiのinternetのhistoryの部分の紹介。翻訳ではなく、筆者のまとめである。

インターネットとワールドワイドウェブの沿革

1960年代、アメリカ国防総省の高等研究計画局(ARPA)はコンピュータのタイムシェアリングの研究に資金を提供した。インターネットの基本技術の一つであるパケット交換の研究は、1960年代初頭にポール・バランが、独立して1965年にドナルド・ディヴィスが始めたものである。1970年代、ARPANETは当初、ボストン、サンフランシスコ、ロサンゼルスのいくつかの都市圏のいくつかのサイトのみを接続していた。その後、ARPANETは徐々に分散化した通信ネットワークへと発展し、アメリカ国内の遠隔地のセンターや軍事基地を接続するようになった。

ARPANETの開発は、1969年10月29日にカリフォルニア州メンロパークでレナード・クラインロックが指揮するカリフォルニア大学ロサンゼルス校ヘンリーサムエリ工学応用科学部のネットワーク測定センターとダグラス・エンゲルバートによるSRIインターナショナル(SRI)のNLSシステムの間で相互接続された2つのネットワークノードから始まった。3番目のサイトはカリフォルニア大学サンタバーバラ校カラーフリード対話型数学センター、次にユタ大学グラフィック学部であった。将来の成長の兆しとして、1971年末までに15のサイトが若いARPANETに接続された。(筆者注:エンゲルバートとユタ大学のサザランドがここで出てくるのはなんともしびれる。


Computer Networks: The Heralds of Resource Sharing 

がタイトルなのだが、調べたらyoutubeである。

短いドキュメンタリー作品で、ARPANETとTCP/IPの話である。

ARPANETの初期の国際的な協力はまれであった。1973年にはスウェーデンのタヌムの衛星局を経由してノルウェーの地震観測網(NORSAR)に接続され、イギリスの学術ネットワークへのゲートウェイとなったユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのピーター・カースティンの研究グループにも接続された。ARPAプロジェクトと国際ワーキンググループにより、複数の別々のネットワークを単一のネットワークまたは「ネットワークのネットワーク」にできるよう、さまざまなプロトコルや標準が開発されることになった。 1974年にヴィント・サーフとボブ・カーンはRFC675でインターネットネットワークの略語としてインターネットという用語を使用し、後のRFCでもこの使用が繰り返された。(中略)

ARPANETへのアクセスは、1981年に全米科学財団(NSF)がコンピュータサイエンスネットワーク(CSNET)に資金を提供したときに拡張された。1982 年、 インターネット・プロトコル・スイート (TCP/IP) が標準化され、 相互接続されたネットワークの世界的な普及が可能になった。TCP/IP ネットワークへのアクセスは 1986 年に再び拡大し、全米科学財団ネットワーク (NSFNet) が研究者向けに米国内のスーパーコンピュータサイトへのアクセスを提供し、最初は 56 kbit/s で、後に 1.5 Mbit/s と 45 Mbit/s の速度で拡大した。1989年に米国とオーストラリアで商用インターネットサービスプロバイダ(ISP)が出現し、ARPANETは1990年に廃止された、とある。

懐かしいね。1990年慶應大学SFCキャンパスがオープンして、僕は助教授として着任。36歳だ。で、1991年にアメリカの大学で教えることになって、インターネットを使って相手の大学と授業シラバスと大学内の書店への教科書の発注をおこなった。あまりのコミュニケーションのスピードにびっくりしたのをおぼえている。

wikiでの歴史に戻ろう。

1992年、T3 NSFNETバックボーンが開通して、半導体技術と光ネットワーキングの着実な進歩は、ネットワークのコア部分の拡張と一般市民へのサービス提供に商業的に関与する新たな経済的機会を創出した。1989年半ばには、MCI MailとCompuserveがインターネットへの接続を確立し、50万人のインターネット利用者に電子メールと公衆アクセス製品を提供した。わずか数カ月後の1990年1月1日には、PSInetが商業用の代替インターネットバックボーンを開始し、1990年3月、コーネル大学とCERNの間に、NSFNETとヨーロッパを結ぶ初の高速T1 (1.5 Mbit/s) リンクが設置され、衛星を使用するよりもはるかに強固な通信が可能になった 。ハイパーテキスト転送プロトコル(HTTP)0.9、ハイパーテキストマークアップ言語(HTML)、最初のWebブラウザ(HTMLエディタでもあり、UsenetニュースグループやFTPファイルにアクセス可能)、最初のHTTPサーバソフトウェア(後にCERN httpdとして知られる)、最初のWebサーバ、そしてプロジェクト自体を説明する最初のWebページなど、バーナーズはWebを実現するためのすべての道具を1990年のクリスマスまでには構築したのであった。1991年にはCommercial Internet eXchangeが設立され、PSInetが他の商用ネットワークであるCERFnetやtAlternetと通信することができるようになった。

とある。僕はこの時アメリカの大学で教えていて、あるとき多分ニューヨークタイムズの日曜版で、ヴィンセント・サーフがワシントンDCで大がかりなロビーイングをした、という記事を読んだ。当時光ケーブルでいくのかインターネットで行くのかの議論がアメリカであって、光ケーブルでインターネットだと主張したのだ。アメリカの「情報ハイウェイ」は実は光ファイバーの伝送で、この分野は日本が優れていた。ここに特化する投資がおこなわれていたときにインターネットだと述べたのである。

この動きを目の当たりにして、僕は歴史や文化理論を研究している場合ではないと、インターネット研究を最初からやり直そうとおもってアメリカの大学から帰国してSFCのキャンパスに再び舞い戻った。さて、寄り道はこのくらいで、wikiの記述に戻る。

1995年には、NSFNetが廃止され、商業トラフィックを運ぶためのインターネットの使用に対する最後の制限が取り除かれ、インターネットは米国で完全に商業化された。

世界のインターネット利用者。
利用者数

下記の表は世界人口に対して、全世界、途上国、先進国の人口あたりのインターネットの普及率を示している。

2005年:65億人ー16%ー8%ー51%

 2010年 :69億人ー30%ー21%ー67%

2017年 :74億人ー48%ー41.3%ー81% 

2019年:77.5億人ー53.6%ー47%ー86.6%

技術が進歩し、商機が相互成長を促すと、インター ネットのトラフィック量は、ムーアの法則に代表される MOS トランジスタのスケーリングと同様の特性を持ち始め、18 ヶ月ごとに 2 倍になる。この成長はエドホルムの法則として定式化されており、MOS技術、レーザー光波システム、ノイズ性能の進歩によって可能となる。

1995年以降、インターネットは、電子メール、インスタントメッセージ、電話(Voice over Internet ProtocolまたはVoIP)、双方向のインタラクティブなビデオ通話、ディスカッションフォーラム、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービス、オンラインショッピングサイトなどのWorld Wide Webによるほぼ即時のコミュニケーションの増加など文化や商業に多大な影響を及ぼした。1Gbit/s、10Gbit/s、あるいはそれ以上の速度で動作する光ファイバーネットワークを介して、ますます大量のデータが高速に伝送されるようになった。

インターネットは、これまで以上に大量のオンライン情報や知識、商取引、娯楽、ソーシャルネットワーキングサービスを原動力に成長を続けている。1990年代後半、公衆インターネット上のトラフィックは年間100%増加し、インターネットユーザー数の年間平均増加率は20~50%と考えられていた。 この成長は、中央管理の欠如がネットワークの有機的な成長を可能にし、またインターネットプロトコルの非専有性がベンダーの相互運用性を促進し、1つの企業がネットワークに対して過度の支配力を行使することを防いだことに起因することが多い。2011年3月31日の時点で、インターネットユーザーの推定総数は20億950万(世界人口の30.2%)1993年にインターネットは対面電気通信で流れる情報のわずか1%を伝えただけだが、2000年までにこの数字は51%に増加し、2007年までにすべての電気通信情報の97%以上がインターネット上で運ばれるようになった。

以上、wikipediaから必要な情報をまとめておいた。Ballはこれを前提に話をすすめていく。今これを読むと日常、インターネットコミュニケーションに慣れ親しんでいれば、なんのことかなんとなく解る。だが、このwikipediaを1990年代にこれを読んだ人がいて、何のことを言っているのか解らない人がほとんどだっただろう。この文章からどのような未来がうまれてくるか、想像できる人は少なかったはずだ。だが、現在このwikiの文章を読むと、世界はこの通りになっていると解る。この30年間インターネットの展開のど真ん中である慶應大学SFCキャンパス、後に日吉に創設された大学院慶應メディアデザイン研究科(KMD)で教育研究をおこなっていて、このことは痛感する。

さて、この大変化はシュンペーターのいう破壊的イノベーションだとBallは述べる。唐突に現れてくるテクノロジーに対して我々は判断を誤る。おもちゃだとあざ笑うこともあれば、どの技術がどのように世界を変えて、それはなぜかということへの判断も誤る。あるいはこの変化が起こるタイミングを間違って判断する。

1998年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは「なぜほとんどの経済学者の予想は間違っているのか」という論文を書いている。非肉にも、彼が用いた例はインターネットであり、彼は「Metcalfeの法則とはネットワークにおける潜在的な接続数は、参加者数の二乗に比例することである。だとすると、お互いに話すことなどなくなるではないか。2005年までにはインターネットが与える経済的なインパクトはファクスと同程度に過ぎない」と述べた。経済学者クルーグマンも経済学者であり予言は間違っていた、というわけだ。

もちろん今から見るとクルーグマンの予言は間違っていることは経済学者でなくてもわかる。だが、その後しばらくクルーグマンの議論の影響があり、インターネットが社会に与える影響は過小評価されていた。映像コミュニケーションへのインターネットの影響もYoutubeやSnapchatのような子供の遊びだと思われており、ハリウッドがインターネットコミュニケーションに舵を切るのは2010年代の半ばである。

Ballは続ける。次世代のプラットフォームが必要だという議論はあってもそのプラットフォームがどのようなデバイスを使って、どのようなビジネスモデルで動くのかもはっきりしていない状態が続いている。その歴史を見てみよう。

1)マイクロソフト

マイクロソフトは1981年にIBMPCが導入されたときにMSDOSをOSとして販売することで巨大な会社となった。その後も対抗馬が出ると「Embrace, Extend, Extinguish 抱き込み、伸ばして、消し去れ」という悪名高い方法でしのいでいた。アメリカの司法省がマイクロソフトは市場での優位性を生かして正当な競争を破壊していると主張したところだ。

日本はインターネットとは無縁に携帯電話を進化させていた。1980年代から2000年、いやiPhoneが登場するまで携帯電話の産業規模は非常に大きかった。日本の経済はここで再生するのではないかという勢いがあった。この市場にマイクロソフトは出て行くことにして2010年にWindows Phoneを発売する。

Windows Phone (WP) は、2012年にWindows Phone 8が後継となり、2015年、Windows 10 Mobileがリリースされ、PCとの統合と統一を進めた。Microsoftはこの時Windows Phoneブランドを廃止したが、技術的にはWindows Phoneの路線を継承した。マイクロソフトはノキアとの大規模なパートナーシップを進め、最終的には70億米ドル強で同社のモバイルデバイス事業を買収した。しかし、AndroidとiPhoneが引き続きスマートフォン用のプラットフォームの支配権を持ち、アプリ開発者のWindows Phoneに対する関心は12年代中ごろまでには低下しはじめた。マイクロソフトは2016年に、買収したノキアのハードウェア資産に対して76億ドルの評価損を計上した後、Microsoft Mobileのスタッフを解雇した。 マイクロソフトは代わりにAndroidやiOSとのソフトウェア開発や統合を優先し始め、2017年にWindows 10 Mobileの開発を停止した。

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マイクロソフトのスマートフォンビジネスへの失敗の分析は次の要素による。

1)スマートフォンのドミナントファクターを理解できなかった。

これはタッチスクリーンを使う、というのがスマートフォンのドミナントファクターであった。これを理解できなかったのはマイクロソフトだけではなく、日本の携帯電話メーカーも同じである。小さな物理的なキーボードの開発に技術を投入していた。そして持っていた市場を一気に失った。

2)プラットフォームビジネスモデルが理解できなかった

これはOSのライセンスを販売するというマイクロソフトのビジネスモデルとはことなり、まず端末を販売する。そしてユーザーはこれを補助端末ではなく、プライマリー端末とする。

3) 誰でも使える機械にする

4)最適価格を当時で500ドルから1000ドルとする。

5)あらゆる事に使える(携帯電話は仕事と電話だけ)

だが、日本の携帯電話とマイクロソフトのWindows Phoneは2007年にiPhoneが登場すると同時に市場を一気に失ったのである。

なぜこんなことが起きたのか。当時のマイクロソフトのCEOであったSteve Ballmerは「500ドル!!さらに毎月お金を払う?こんな高い携帯電話をみたこともない、と述べ、ちゃんとしたキーボードがないなんて信じられない。e-mail マシンですらない。」と述べたという。iPhoneとiOSそしてgoogleのAndoroidはこうして破壊的テクノロジーとなって巨人であるマイクロソフトを葬り去ったのである。2016年にはインターネットの主流はスマートフォンのユーザーとなっていた。

2)Facebook

Ballはマイクロソフトに次いで、Facebookの動きを説明する。Facebookは商業化されたインターネットの最も成功した会社といわれ、最初はモバイルフォンの動きの判断を誤っていた。iPhoneが発売されてもFacebookはブラウザーベースのサービスを中心に活動をしていた。Appleがアプリストアを開始して、Facebookもそのプラットフォームを通じでアプリを販売したが、それはブラウザーをつかわないだけで、HTMLベースのいってみれば「シンクライアント」だった。2012年にFacebookはまったく最初からコードを書き直したFacebookアプリケーションを完成させてAppleのアプリストアからダウンロードできるようにした。ザッカーバークはHTML5に依存していた開発体制から脱却をすると宣言した。この転向はザッカーバークは遅れた、と述べているが、モバイルビジネスにピボットした成功例だと言われている。ピボットとは路線変更を意味するシリコンバレージャーゴンである。

その後Facebookは広告からの収益を5%から23%へと増大させた。つまりHTML5の時代に失っていた利益はぼうだいなものだったのである。また2014年に買収したWhatsApp、iOS版のFacebookアプリ発表の2012年の少し前に買収したInstagramが順調に広告の売り上げを伸ばしていった。

ドットコムバブル崩壊と破壊的イノベーション

こうしてビジネスの中心がPCからスマートフォンへと動く破壊的イノベーションが起こる流れは、ドットコムバブルの崩壊後の動きとして説明することが出来る。これについてもwikipedia英語版を参考にBallの解説に説明を加えておきたい。ちなみにwikipediaの英語版のインターネット関係の説明に関してはかなりの正確さがあり、かつちょっとでも間違うと強烈な突っ込みがあるので、他のwikipediaの説明に比べて、かなりの信憑性があると判断している。

ドットコムバブルはインターネットバブルとも呼ばれ、インターネットの利用や普及が大きく伸びた1990年代後半に起きた株式市場のバブルである。1995年から2000年3月のピークまでの間に、ナスダック総合株価指数は400%上昇したが、2002年10月にはピークから78%下落し、バブル期に得た利益をすべて手放した。ドットコムショックでは、Pets.com、Webvan、Boo.comなどの多くのオンラインショッピング企業や、Worldcom、NorthPoint Communications、Global Crossingなどの通信企業が破綻し閉鎖された。Amazon.comなど生き残った企業も、シスコシステムズが単独でその株式価値の80%を失い、市場資本金の大部分を失っている。

歴史的には、1840年代の鉄道、20世紀初頭の自動車、1920年代のラジオ、1940年代のテレビ、1950年代のトランジスタラジオ、1960年代のコンピュータタイムシェア、1980年代のホームコンピュータやバイオテクノロジーなど、過去の技術ブームと株式市場崩壊に類似しているといえる。

概要
1998年から99年にかけての低金利の影響で、新興企業が増加した。その中には、現実的な計画や管理能力を持った起業家も少なくないが、そのような能力を持たずとも、ドットコムのコンセプトの新しさによって、投資家にアイデアを売り込むことができた起業家が大半であった。2000年、ドットコムバブルが崩壊し、多くの企業が資金繰りに行き詰まり、倒産した。しかし、21世紀初頭には、多くの企業が生き残り、成功を収めている。

バブルへの序曲

1993年にリリースされたMosaicとそれに続くウェブブラウザにより、コンピュータユーザーはWorld Wide Webにアクセスできるようになり、インターネットの利用が一般化した。デジタルデバイドの解消、接続性、インターネット利用、コンピュータ教育の進展により、インターネットの利用が増加した。1990年から1997年にかけて、アメリカの世帯に占めるコンピューターの保有率は15%から35%に上昇し、コンピューターの保有は贅沢品から必需品へと変化した。1997年の納税者保護法(Taxpayer Relief Act of 1997)により、キャピタルゲイン課税の上限が引き下げられ、投機的な投資への意欲が高まった。 1996年の電気通信法の施行により、多くの新しい技術が生まれ、多くの人々がその恩恵を受けようとした。

特に、ネット通販からスタートした企業の多くが、大きな成功を収めた。オンラインマーチャンダイジングが収益性の高い追加収入源になり、オンライン・エンターテイメントやニュースの何社かは粘り強く事業を続け、最終的に経済的に自立した。従来のメディア(特に新聞社、放送局、ケーブルテレビ局)も、ウェブがコンテンツ配信のための有益で収益性の高い追加チャネルであり、広告収入を得るための新たな手段であることに気がついた。バブル崩壊後も生き残り、最終的に繁栄したサイトには、2つの共通点があった。それは、健全なビジネスプランと、ユニークとまではいかないまでも、特によく定義され、よくサービスされている市場のニッチであった。

バブルの発生
これらの要因の結果、多くの投資家は、ドットコム企業、特にインターネット関連の接頭辞や「.com」を社名に持つ企業には、どんな評価でも投資したいと思った。ベンチャーキャピタルは簡単に調達できた。IPO で大きな利益を得た投資銀行は、投機を煽り、テクノロジーへの投資を促した。経済の第四次産業の株価が急速に上昇し、その企業が将来利益を上げるという確信が重なり、多くの投資家が株価収益率のような従来の指標を見過ごして技術の進歩に信頼を置く環境を作り、株式市場のバブルを引き起こした。

 1995 年から 2000 年の間にナスダック総合株価指数が 400%上昇した。1999年には、クアルコムが2,619%、他の大型株12銘柄がそれぞれ1,000%以上、さらに大型株7銘柄がそれぞれ900%以上上昇した。1999年のナスダック総合株価指数は85.6%、S&P500は19.5%上昇した。

ブームの絶頂期には、有望なドットコム企業がIPOによって公開企業となり、利益を出したことがなくても、場合によっては実質的な収益を実現したことがなくても、相当額の資金を調達することが可能であった。

バブルの崩壊

ドットコムバブルは2000年3月に崩壊し、テクノロジー色の強いナスダック総合指数は3月10日に5,048.62(日中5,132.52)でピークに達し、2001年になると、バブルのデフレが本格的に進行した。ドットコムの大半は、ベンチャーキャピタルやIPO資本を使い果たし、しばしば利益を上げることなく、取引を停止していた。しかし、このような状況にもかかわらず、インターネットは、商取引、これまで以上に大量のオンライン情報、知識、ソーシャルネットワーキング、モバイル機器によるアクセスなどを原動力に成長を続けた。

「利益よりも成長」という考え方と「ニューエコノミー」の無敵のオーラによって、一部の企業は精巧なビジネス施設や従業員のための豪華な休暇に贅沢な出費をするようになった。新製品やウェブサイトの発売時には、ドットコムパーティーと呼ばれる高価なイベントを開催する企業もあった。このあたりのお馬鹿さかげんはこの連載で前に言及をした。

通信バブル

ドットコムバブルの後、多くのインターネットビジネスの顧客が倒産したため、通信会社は大量の過剰設備を持つことになった。そのため、地域携帯電話インフラへの継続的な投資により、接続料金は低く抑えられ、高速インターネット接続がより手頃な価格で提供されるようになる。この間、World Wide Webをより魅力的なものにするビジネスモデルの開発に成功した企業は数少ないが例をあげるなら、航空会社の予約サイト、グーグルの検索エンジンとその収益性の高いキーワードベースの広告アプローチ、イーベイのオークションサイトやアマゾン・ドット・コムのオンラインデパートなどがあげられる。世界中にいる何百万人もの人々に低価格でリーチでき、リーチしたその瞬間に販売したり、意見を聞いたりすることができるため、広告、通信販売、顧客管理など多くの分野で、既存のビジネスのドグマを覆すことが約束された。ウェブは、無関係な売り手と買い手をシームレスかつ低コストで結びつけることができる、新しいキラーアプリだったのだ。


1996年の米国電気通信法施行後の5年間に、通信機器会社は、光ファイバーケーブルの敷設、新しいスイッチの追加、無線ネットワークの構築に、ほとんどが負債で賄われた5000億ドル以上を投資した。 アメリカ合衆国政府は技術インフラに資金を提供し、企業の拡張を促すために有利なビジネス法や税法を制定した。

バブル崩壊

そしてバブルが崩壊する。2000年に入り、企業は2000年問題に備え、技術への支出は不安定になった。コンピュータシステムが1999年から2000年に時計とカレンダーのシステムを変更するのに苦労し、より広い社会的、経済的問題を引き起こすかもしれないと懸念されたが、十分な準備を行ったため、実質的に影響や混乱はなかった。当時連邦準備制度理事会の議長であったアラン・グリーンスパンは、何度か金利を引き上げた。この行動は、多くの人がドットコムバブルの崩壊を引き起こしたと信じていた。しかし、ポール・クルーグマンによれば、「彼は市場の熱狂を抑えるために金利を上げたのではなく、株式市場の投資家に証拠金規制を課そうとしたわけでもない。その代わりに、2000年のようにバブルが崩壊するまで待ち、その後に混乱を一掃しようとしたとされる」と説明された。

2000年3月10日金曜日、ナスダック総合株価指数は5,048.62でピークに達した。唐突に、トーマス・ペンフィールド・ジャクソン判事は、United States v. Microsoft Corp. (2001)の事件で結論を出し、マイクロソフトがシャーマン反トラスト法に違反する独占と抱き合わせで有罪であると判決を下した。これにより、マイクロソフト社の株式の価値は1日で15%下落し、ナスダックの価値は350ポイント(8%)下落した。多くの人々は、この法的措置がテクノロジー全般にとって悪いものであると考えた。 

2000年4月14日金曜日、ナスダック総合指数は9%下落し、25%下落した。2000年6月までに、ドットコム企業は広告キャンペーンへの支出の見直しを余儀なくされた。2000年11月9日には、アマゾン・ドット・コムの支援を受けていたペッツ・コムが、IPO完了からわずか9ヶ月で倒産した。その時までに、ほとんどのインターネット銘柄は高値から75%も値を下げ、1.755兆ドルが消し去られていた。 以降、 2001年10月のエンロン事件、2002年6月のワールドコム事件、2002年7月のアデルフィア通信社事件などいくつかの会計スキャンダルとそれに伴う破産によって投資家の信頼はさらに損なわれた。

2002年の株式市場の低迷の終わりまでに、株式はピークから時価総額で5兆ドルを失っていた[59]。 2002年10月9日の谷で、NASDAQ-100はピークから78%ダウンし、1114に低下していた。

その後

多くのドットコム企業に出資し、バブル崩壊で純資産の9割を失ったベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンは、2015年の著書で、ドットコムバブルについてこう述べている。

私の友人に名言がある。彼は、「非合理的な高揚感なしには、重要なものは何も築かれなかった」と言う。つまり、鉄道や自動車、航空宇宙産業などの建設に投資家が資金を提供し、懐を開かせるためには、ある種のマニアックさが必要だということです。この場合、投資された資本の多くは失われましたが、インターネットのための非常に高いスループットのバックボーンや、多くの機能するソフトウェア、データベース、サーバー構造などに投資されたのです。そのようなものが今日のものを可能にし、私たちの生活すべてを変えたのです...それがこのすべての投機マニアが築いたものなのです。

以上、ドットコムバブルについて概説をした。この期間に投資されて、いまに残ったものは

1)インターネットのための非常に高いスループットのバックボーン

2)多くのソフトウェア

3)データベース

4)サーバー

である。

破壊的イノベーションの歴史がおしえることは現在のメタバースが可能になったときに、我々はどのように日常生活を送っているのかを我々は予言することができない、ということだ。だが予言できないということは大きな問題ではないのである。メタバースが破壊的技術であるための基本的な条件であると言っても良い。これから起こることに備えておくためには、メタバースがどのような技術によって構成されており、それを組み合わせるとどのようになるのか、を知ることである。そしてそれはメタバースを定義することなのだ、とBallは第二章を結ぶ。

このアプローチは素晴らしいと思う。メタバースがもたらす未来を予言するのでもなく、逆にもたらすかもしれないディストピアを予言するわけでもない。ネットバブルがのこしてくれた技術的遺産を活用する技術がどのようなものであり、それを組み合わせるとどのようなことが起こるのかを細かく調べていくことが必要なのだ。未来を予言している暇があったら、こうした技術の組み合わせがいまのシステムを破壊して葬り去る破壊的イノベーションになる瞬間に、素早くビジネスの波の前に出ることが大事なのだ。

とBallはメタバースを構成する技術とそれを説明する歴史をかなり明確に呈示した後に、いよいよメタバースとは何かの定義にむかう第3章に入る。ここはなかなか理解するにはタフな章なのだがわかりやすく解説をしていきたい。そして第4章、インターネットの次にくるもの、あるいは次のインターネットを説明する章でメタバースの意味を説明していく。ここまでをきちんと理解したグループが次のイノベーションの勝者となる、というわけだ。ここが終わると、どのようにメタバースを作っていけばいいのかの各論である第二部、メタバースのイノベーションパワーを説明する第三部へと向かう。Ballの本で一番難しいのは第3章の定義のところで、ここを乗り越えると議論は進む。第1章は定義に必要な新しい歴史の説明であり、第二章はどうして我々はこの歴史が理解できないかの説明だった。次回から第三章にむかっていく。辛抱がいるところであるが、お付き合い願えれば幸いである。






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