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「中今」について

「中今」についての現時点での私のたどり着いた考えを書いてみようと思います。

矢作直樹先生の何番目かの弟子を自認するものとして、中今を生きることの重要性を先生はいつも説いておられるわけだけれど、「中今」の端っこくらいならやっと理解できた気がしたので、頑張って書いてみようと思います。

長内俊さんから読めと渡された本の図がとっても分かりやすいのでそれで紹介します。


スピリチュアルとか精神世界の分野で、過去や未来に囚われないで「今ここ」とか「今この瞬間を生きる」とか「ありのままで生きる」みたいなことを言う人がいるけれども、それはそれで良いと思うけれど、矢作先生の言う中今はもっと奥が深くて、図10に近い。てかまさにそれ。なはず。自分の過去すべてを肯定し、さらにはそのご先祖、さらにはその御霊の源まで統合した今なのだと思っています。その今に過去の全てが含まれる今。だから先生は歴史を過去の事実をきちんと学びなさいとおっしゃっているわけです。きちんと事実を正しく学び、過去に想いを馳せることが大事だと。
そしたら、何が起きるかって、過去からすんごいエネルギーがもらえるんです。今を全ての過去の力が支えてくれるんです。たぶん。
矢作先生が東大病院で365日休みなく睡眠時間3時間で10年以上も救急のお仕事して、本も何冊も書いて、とできたのは、先生はスーパーマンなんですけど、それができるのは過去からエネルギーをもらっているからなんです。自分だけの力じゃないんです。きっと。
それも含めて矢作先生だからできると言ってしまえばそれまでなんですけど、矢作先生ほどじゃなくても我々凡人でもきちんと過去を認識して想いを馳せたら過去からエネルギーをもらえるんです。そうすると今まで以上のことが誰でもできると思っています。そして疲れないです。なぜなら自分の力使わないから。

例えば私も半年くらい前から近所の真瀬の神社とかお寺とか小さな産土神とか馬頭観音とかお散歩して手を合わせて、過去の真瀬の人達の暮らしに想いを馳せ、筑波山や谷田川を眺めて、みんなここからこうやって眺めていたんだとか、筑波山あたりでは縄文時代から人々がきっとこんな暮らししていたんだなとかなとにやにやしてるんですけど、それだけでも明らかにエネルギーを頂けている感がしてます。少しですけど。今が過去に支えられて未来に向かう感覚ですかね。見守られている感ですかね。
そのためには、まず自分の過去を肯定すること。失敗も悲しみも全て肯定すること。親も肯定すること。そしたらその先まで自然にご先祖まで遡れるはずです。という最近の私の気づき。

もう一つ矢作先生が言う「五感を磨く」ということについてです。
これも長内俊さんに教えてもらった立禅ウォーキングという本で読んで、なるほどって思ったんです。普段我々って本当は五感全てでこの瞬間の事象を感じられるはずなんです。けど、多分今この文章を読んでくれている人がいたらそれに集中してると外の雨の音とか車のとかも聞こえているはずなのに聞こえてないかもしれない。携帯をさわる触覚や来ている服の肌触りも感じているかもしれないのに何かに集中しているこの瞬間には感じられていないかもしれない。鼻から入る空気の温度とかも。呼吸に合わせたお腹の膨らみの感覚とかも。目だって携帯みながらも周辺視野でも何かみてるはずなんだけど多分今この瞬間はみえてないはず。
つまり我々はふだん五感全てを使って感じられるだけのことをまだ感じきれていないのです。これは私の仮説ですが、鬼滅の刃の全集中って何か一つに集中してするのではなくて、今この瞬間の五感全てが感じられるものに意識を回すことなんじゃないのかと。
それができたとき、物事の全体像を捉えられるし感じられる。何なら第三の目も開く。それが「今この瞬間を生きる」ということなのではないかという今のところの仮説です。
で、そんな状態でお散歩するのが、長内俊さんが教えてくれた立禅ウォーキングでして、そんな感覚で毎朝お散歩してるんですけど、そしたら毎日すこぶる身体も頭も調子が良くて。夜寝て朝起きると色んな考えが統合されたり、あれはそういうことだったのかとか気づきがあったりとか色々良いことづくめです。


以上、先生学びのスピードが遅くて大変申し訳ありませんという報告を兼ねての最近の学びと気づきについてのレポートでした。

真瀬の現場からは以上です

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