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あの日、あいつは輝いていた。(塩にぎりの事です)

最後の晩餐は何が良いですか?

 このあるあるの質問をされる度に真っ先に思い出す食べ物がある。
塩だけで握った「塩にぎり」だ。


 「塩にぎり」について記す前に、私の背景について少し記しておきたい。

 私は共働の両親の元に生まれた、両親は共に薬剤師で別々の場所(父は自宅の1階、母は2駅離れた所)で薬局を開いていた。
 また、私たち兄弟は(兄がいる)子育てを担っている母の職場近くの学校へ通っており、学校が終わると母の職場の休憩室で母と過ごし、夜7時過ぎに父の居る家に帰る生活をしていた。

 共働きである母は、昔の女性でもあったので、家事子育て一切を引き受けていた。
 父は箸1本動かさなかったし、『子の世話』なんて言葉は父の辞書にはなかった。

 かといって、父がひどい父親かというとそうでもなかった。
 道理の通らない事象が嫌いな父は、子供らが物心がつき人間としてまともに会話ができる様になってからはよく「自分の趣味に子供を付き合わせる」と言う形で遊んでくれた。(また私は比較的のせられやすい子供だった。)

 趣味の車の掃除を綿棒片手に一緒にさせてもらったし(溝に詰まったワックスをいかに綺麗にするかの遊びである)。
 毎晩の様に行っていたゴルフ練習場に一緒に連れて行かれ「プロゴルファーになるんだ!」というむちゃぶりの元、ハードな練習をさせてくれた(私には壊滅的にセンスがなかった)。
 サンタクロースにもらったドンジャラを「そんな子供騙しの遊びはやめろ」とあっという間に捨てられ、麻雀を仕込まれたのは小2の頃である(麻雀であれば徹夜で遊んでくれる良い父であった)。
・・・
・・・・
・・・・・・字面にするとひどいな。

 とにかく、少々破天荒で家庭を顧みず、今現在でもおそらく茶碗の一つも洗ったことがない父に、私は結構懐いていた。(権力のある遊び友達と思っていたきらいもあった)


 その日、私は風邪をひいていた。

 私はほぼほぼ学校を休まない子供だった。母が厳しくどんなに体調不良を訴えようが、証拠(最低でも37℃以上となった体温計)を提示しないと休ませてくれなかったからだ。なので学校を休む事は稀であり、また、学校を休んだところで(父には絶対に任せられないので)自宅でなく、いつもの母の職場の休憩室で布団をひかれ寝かされると言うのが常であった。

 小学校3年生だったと思う。あの日の朝、私は、だから最低でも37℃以上の熱があった。
 発熱中の私は、少し子供がえりをし、朝私を連れようとする母に普段ない勢いで我儘を言った。
「パパと一緒にいる」「パパと一緒がいい」「絶対に家から出ない」
母、非常に困ったことであろう。

 困惑した母が手をかえ品をかえ私を説得する中、自信満々の父がドヤ顔で言い放った。
「娘の1人や2人オレに任せろ」
・・・・・娘は1人しかいない。

 とにかく、『父』を知っている母は、普段は許さないリビングに客用布団をひき、テレビのリモコンを娘に握らせ、不安いっぱいの面持ちで、心配を押し殺し、兄だけ連れて仕事に出かけた。

 いつもとは違うリビングの様相、フカフカの布団、時間制限もチャンネル制限も無いテレビ、うるさい大人(母)はおらず、お供は遊び友達。
控えめに言って天国である。

 「じゃあオレ、仕事してくるから大人しくしてろよ」今日は一段と頼りになる遊び友達はそう言って職場(自宅1階)に消えていった。

 最初は天国だ。いつもはチャンネル権の無い私が(チャンネル権は父が持っていた)、いつも見られない大好きな教育テレビを好きなだけ見られる。

 1時間経ち、2時間経ち・・・だんだん心細くなっていく。いつものリビングはいつもと様相が違う上に、1人でいるだけで、なんだか広く感じる。
 一旦うとうとして起きても、状況は変わらない。
 ・・寂しい。
 ・・・・遊び友達が、
 ・・・・・・遊びに来ない。
 ・・・・・・・お腹が減った。

 ・・ていうか、あの人ああ見えて実は保護者なのに様子を見にもこない。なんなら誰か(従業員)に見にこさせたりもしない。

 誰も来ない。

 おそらく、忙しかったのだろう。忘れたわけでは無いだろう。無いで、あろう。

 泣く事は出来ない、この状況は私の我儘の上に成り立った状況であるし、泣くなんて私の矜持が許さない。
 ・・つまり「ほら言ったじゃない」と母に言われるは死ぬ程悔しい。
 (私は幼い頃から少々頭でっかちな人間だったのだ。)

 悲しみと悔恨に行ったり来たりの午後1時、実に4時間ぶりに父が現れた。

 「おう、ごめんな」と現れた父は、ひとしきりキッチンでゴソゴソした後、「ほら、これ食べてろ」と言ってまた階下に消えていった。

 ・・ハグもなでなでも無しである。(滞在時間5分である。)
 ぽかんとした私の前のテーブルに残されていたのは、見たこともない大きさの「おにぎり」だった。
 大玉のグレープフルーツぐらいの大きさの丸々とした握り飯は真っ白だった。

 真っ白で、でかくて、輝いていた。

 生まれて初めての、真っ白なおにぎりとの会合。そこに海苔も、おかかも、ふりかけも介入しない。

 塩にぎり

 その塩にぎりは、もう本当に大きくて固くて、涙が出るほどしょっぱい部分とびっくりするぐらい味がない部分が混在していた。

 ものすごく、美味しかった。

 その後父は(子供が居ると言うことを思い出したのか)、1・2時間に一回は顔を出し、娘に請われるまま冷たい牛乳を与えたりジュースを与えたりする。母が家に帰る頃、娘の熱は上がりに上がり38℃を超えていた。

 帰ってきた母に怒られまくった父。その後決して「オレに任せろ」と言わなくなったので、(娘も何故か父が良いとは言わなくなったので)、父の「塩にぎり」を食べたのは現在のところそれが最初で最後だ。


 大人になって社会に出て、数え切れないほどの接待や、もうちょっとよく分からない高級店に連れて行こうとするもうちょっとよく分からない大人との出会いから、色々な美味しいものを食べてきたと思う。
 それでも私の断然断トツの一番の食べ物は「塩にぎり」だ。

あの塩にぎりの大きさは父の大きさだった。
あの塩にぎりのしょっぱさは父の不器用さだった。


・・・・・・・良くいうと。

こちらは過去に書いたものを『日清オイリオ×noteで、投稿コンテスト「#元気をもらったあの食事」』に向けて、手直しして再掲載させていただきました。

最後までありがとうございます☺︎ 「スキ」を押したらランダムで昔描いた落書き(想像込み)が出ます。