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価値を高めて遠ざかる ~AEDを巡る論争~

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 ここ数日、AEDの使用に関して何度目かの議論が起こっているようだ。

救命に欠かせないAEDですが、「倒れた人が女性だった」ことを理由に使われない、という事態が起きています。

 AEDは衣服をある程度脱がさなくてはならない。女性を裸にするというのは抵抗があるだろう。男性としても公の場で服を脱がす行為は普段しないし、性的な羞恥心を考えればよくわかることだ。ためらう理由もよくわかる。

 法的な問題についても言及されてはいるが、それに対する法曹等の見解もしっかりと述べられている。確かに法的にはまず問題はない。人命救助を行うために必要な措置であるのだから、正当業務行為(刑法第35条)に該当するので、医療従事者でない一般人の利用でも刑事罰には問われない。もちろん民事においても通常であれば責任はない。法律的な見解をだすのであれば、基本的にはこれで十分である。

 だが、それでも人々というよりは男性にとって、なお心理的な障壁になっているのである。これは法だけに問題があるわけでもない。また、デマによって人が動かされているというのも、必ずしも実態には合致しない。
 私はこれについて結論を出すのであれば、「女性の性的価値」が高まっているからこそ、起こった結論であると判断する。



1 AEDに関する意識調査について


 AED利用に関する意識としては、例えば下記のものがあげられる。

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 自分がAEDを利用された場面出、どう感じるのかというアンケートなのであるが、見ての通り女性については男性に比べて圧倒的に抵抗を感じるという人が多くいる。不快感を感じる人についても5倍以上の差がある。

 これだけ大きな意識の乖離がありるわけだが、元々、男女の間では性的羞恥心やその扱いには差があることが起因していると考えられる。

 例えば、男性に対しては銭湯などで女性の職員が男性の入浴場に入ってくることや、トイレも場合によっては男性のトイレは外から丸見えになっている様なことや、男性用だけ窓が付いていて外から見えるようなケースもあるなど、性的な面について軽視されている面がある。

 もちろん、これには男性が胸のように肌を出せる部分が多いことや、男性自体が性的な羞恥心を感じにくいという人もいることも起因する。AEDを使う際も基本的に上半身を脱がすものだから、男性はより性的な羞恥心を感じにくいと言えるだろう。

 だが、女性はそうではない。次の章で書くこともあるが、女性に対しては上半身は胸があるため出すのはためらうだろうといった、性的に見られてはタブーな面は多い。男性のような雑な扱いはされていないので、必然的に性的に羞恥を感じる面は多いだろう。

 そういった意識の差が男性と女性に対する違いを生み出している一因になっていると考えられる。男性側は特に女性に対する意識する面に躊躇するのではないだろうか。そのことは先の記事のデータにも、はっきりと現れている。

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2 女性の性的価値の高まりと懸念


 元々性的な部分というのは、センシティブな側面を有しているだけではなく、近年における女性に対する性的な物事に関しては、色々な規制が増えたり、声が大きくなってきたことによって、様々な場面で性的な不快感を表明することによって価値が高まっている部分もある。

 単純に刑法に関して罰則や構成要件を改正することや、セクハラといった性的言動などによる不快感を処罰すること、過去にまで遡って断罪するmetoo運動、性的表現における過剰なまでの規制といった、女性の性に対するタブーという面を広げてきた。

 その内容は年々センシティブかつ厳しくなっていくものであり、それに対応するために色々な対策を講じたり、ガイドラインを作成されたりはするだろう。

 が、どれが性的となるのか、どこまでが大丈夫なのか。そういったラインが狭くなればなるほど、曖昧なら曖昧なほど、行動は制限・抑制されるのである。下手に動けば、そのリスクが全面に現れるからである。更には、これからも制限の範囲が拡大していくとなれば、人々はそれに対するリスクを嫌というほど意識するであろう。(場合によってはフラワーデモの内容や、えん罪事件などのような法原則を無視したような事態もあり得るわけで。)

 さて、このような状況下で、いくらAEDが問題がないという話になったとしても、気軽に性というセンシティブなことに手を出していけるのだろうか?と考えてしまうのも無理はないことだ。

3 配慮について提言はされているものの

 

 もちろん、女性に対する性的な側面に対して、配慮を求めていこうという話もある。記事に関しても具体的な提言というのはある。それ以外でもツイッター上でもこうするといいというような提言も出ている。


 なるほど、人の不安を少しでも解消しなくてはならない。こうすればどんどん避けられるのだから、もっと抵抗感なく救うことが出来るだろう。

 だが、色々提案しているようではあるが、これだけのことを一体何人の人間が必要であり、それを行ってくれる人が何人もいるのだろうか?

 単純に忙しい中で、人を助けると言うこと自体が結構な面倒である。時間を使って他人を助けるのは、色々な面倒ごとを後に控えていることも珍しい話ではない。人助けしたので、何かに遅れました。それで許してもらえれば良いのだが、トラブルになったというケースも少なからずあるだろう。

 自分のやることを中断するのだから、色々な問題が出るのは致し方がない。それでも、なんとかして助けたいとなったときに、あれもしなくてはこれもしなくてはと色々な条件が重なってきたら、手をよけいに出しにくくなるのではないか?しかも時間が切迫している状況なら、配慮とやらをする余裕は時間的にも物理的にも精神的にもない。

 色々な条件をつければつけるほど、逆にその条件を少しでも外れてしまったとき、やっぱり何か言われるのではないだろうか?と言うことを、救助側は懸念するだろうし、非難する者もいるだろう。さて、しくじりが発生したとき誰が守ってくれるだろう?もちろん法的にはよほどのことがない限り問題ないだろうが、その後の法以外の面倒くささをどうしてくれるだろうか?



 こうすれば大丈夫、こういう風にすれば配慮は出来る。と言ったことを話せば話すほど、通常よりもよりややこしいことを求められているという証左でもあり、皮肉にも女性というものの性的な価値の高さを認めてしまっているのである。

 価値が高まり、特別な配慮などの何かを求めれば求めるほど、皮肉なことに逆にリスクを感じて避けられてしまうのである。最初に紹介した記事には

「AEDが男女の区別なく使われるようになってほしい。そのための教育や啓発に力を入れてほしい」

 と書かれていたが、その提言をすればするだけ、実現が遠のくとは思ってもいないだろう。論理や手段には目を向けていても、人々(男性)の感情には目を向けれないのだから。


 普段は、男女関係の話で法的なことも含めて論理的な説得をしてきて聞き入れられないような事が多々あることを私は見てきた。今回の件を見るに、法的リスクがないことを訴えるという論理が通じないのは、まるで今までの呪詛返しのようである。(特にフェミニストに今まで散々感情的なことでやられてきた者にとっては、意趣返しともとれよう。ただ、賛同は出来ない面が多いが。)


参照


追記(2023年9月4日)
救命処置とAED 女性への配慮 米国の場合 | BLS横浜

またAED論争が少しあった際に発見したのでこちらを追加しよう。

現代日本で推奨されている脱がさない方法によるAEDの使用方法ではあるが、アメリカではこのような方法は否定されており、原則通り男性も女性でも全部脱がせる方法が推奨されている。

理由は簡単で単に難しいからだ。

特に服の隙間からAEDパッドを貼るというのは、救命のプロであっても難しいやり方です。

救命処置とAED 女性への配慮 米国の場合 | BLS横浜


こういったことが事実ベースで重なれば重なるほど、より日本の女性に対する配慮によって男性に対する忌避感を醸成している。

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