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溜飲を下げているのは誰だろうか? ~「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由~ の考察



  昨日話題になった記事であり、記事を書いた人はベンジャミン・クリッツァー氏という方で、倫理学やジェンダー論、ポリコレなどに関する文章を書いている批評家の方である。

 この記事の内容を読んだ第一の感想としては「かなりひどいな」といったところが、第一印象であった。男性学などの現状に関してそれなりの認識はしており、批判点も熟知しているようではあるのだが、話が進むにつれて彼は本当に批判する気があるのか?という気になってきたのである。(記事を読んだ後に彼の運営しているブログの名前を見て、よりそれを感じることにもなった。)

 彼の文章には、実に小賢しいほど言葉を選んで記述がされており、紐解けば実に都合のいい話につなげるための論理を構築しているに過ぎないと判断できる。 

1 制度と実存とは?

 まず、気になったのは彼が女性差別と男性差別との対比として、制度と実存という言葉を使った点である。


この社会には女性差別がいまだに存在している。女性に対する差別は、制度に関わるものであることが多い。つらさの原因が制度的なものである場合には、個人でどう対応してもつらさは解消しきれない代わりに、制度を変えることでつらさの原因に根本から対処することができる。
女性に比べると、男性のつらさは制度的なものというよりも実存的なものである側面が強い。たしかに男性のつらさのなかにも、再分配を手厚くするなど制度によって軽減できる種類のものもあるだろう。しかし、女性やパートナーがいないことによる孤独や承認の問題は、少なくとも近代的なルールを前提するならば、制度をどう変えても対処することは難しい。個々人が自分の人生に向きあいながら対応せざるを得ないものだ。

 この点には非常に強い疑問点がある。まず、男性差別に関しても制度的な部分における差別というのは十分に存在していることである。先日も具体的な制度に関していくつか書かせてもらったnoteがあるが、ここには法制度や民間・公的問わず作られた制度、いろいろな事例を紐解いていけば、実存であろうが制度であろうが、男性差別とされるものは存在している。

 当然、これらの差別は弱者であっても強者であっても受けるものであるのだが、彼が実存的として結論をだしている点は非常に謎である。彼がこれらのことに対して無知であるという可能性はかなり乏しいだろう。

 また、そもそも制度と実存というのは密接に関連しているものではないだろうか?という疑問がある。
 法制度などというのは、実際に社会で起こった実損の出来事に対して、どのように対応し、制度を確立していくかということが大前提になっていることは普通のことだから。

 例えば、DV防止法というのは家庭内におけるDVという存在があったからこそ、DVに対する罰則などの制度は確立され、その実効性のために様々な方法論が盛り込まれてきたのである。
 男性差別の具体例でいの一番レベルで上がる女性専用車両だって、痴漢という実存によって成立させたという経緯があるのだから、これとて実存であり、逆に男性にとっては差別となりうる制度にもなっている。

 この2点を考えただけでも、彼の言う実存によるものが多いという論理は理屈として成立しうるようなレベルのものですらなく、しかもパートナー関連に相手の主張を限定させながら、制度を変えることは難しいとするのはかなりの疑問がある。(いってしまえばチェリーピッキング的な行いである。)


2 見え隠れする男性への被差別意識の軽視


 実存という極めて曖昧で不可思議な論理を採用しているのは説明したとおりであるが、この論理を採用しているのには男性への差別というものに対する軽視が垣間見える。
 これは、本件記事だけではなく、彼が書いているブログ「道徳的動物日記」にある記事のいくつかを見るだけでも、その一端を垣間見ることができる。


特に日本のインターネットにおける「弱者男性論」をわたしが嫌っている主たる理由は、それが大半のフェミニズム理論以上に針小棒大的であったり事実に基づいていなかったりしていて、さらには弱者男性論者たちはそのことに自分で気が付いておきながら小銭稼ぎのために男女間の対立を煽る記事を量産し続けているフシがある

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たとえば実際にアパルトヘイトやホロコーストが起こったという歴史的事実をふまえてみると、ヨーロッパ人や白人が「白人だけの街に住みたい」「ユダヤ人がいない町に住みたい」とつぶやいたとすれば、仮につぶやいた本人が主観的に本気で黒人を恐れていたりユダヤ人の犯罪率は高いと認識していたりしても、あるいは仮に統計的にそれらの人種の犯罪率なり暴力性が有意に高いとしても、そのような発言が黒人やユダヤ人に対して与える恐怖や脅威を考えれば、問題のある言説や差別発言として批判の対象とされるべきだろう。しかし、件の「女性だけの街に住みたい」という発言に関しては、少なくとも私は(自分自身が男性であるにも関わらず)恐怖や脅威を感じなかった。というのも、アパルトヘイトにあたるような隔離政策やホロコーストのような虐殺が「女性」という属性から「男性」という属性に対して行われたことは歴史的にほぼ皆無であるし、今後の世界でもおそらく有り得ないだろうと思うからだ。
もしある社会で特定の人種が特定の犯罪を犯しやすいとすれば、それは社会の制度や構造に由来しているはずだし(その人種は経済的に不利な立場に立たされていたり、就職の際にその人種は差別されて真っ当な職に就くのが難しいから、非合法な手段で金を稼がなければならない、などなど)、その制度や構造を改善することを行うべきだろう。・・・だが、男性という属性が犯罪を犯しやすいということには、社会の制度や構造とは別の生物学的性差も関係している。何が言いたいかというと、人種という属性に関する議論を性別という属性に関する議論にそのまま反映することはできないだろう、ということだ。

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 本件記事でも関連記事でもそうなのだが、一見するとフェミニズムに対する批判もあったり、男性に対する不当な抑圧も問題ではないだろうか?というような語り口が垣間見えることはある。男性学に対する疑問についてその不当性を主張し、フェミニズムに対する影響や男性のつらさに対して寄り添ってこられなかったことをしっかりと批判してるため、一見すると男性に対する優しさを見せているようにも見える。

 だが、最後まで読んでみると、まるで男性に対するものに関しては、それは何ら問題ないかのような言説で語られているという、読んでいる人は混乱しそうな文章を垣間見ることができるのが彼の文章の特徴の一つである。

 先の実在という謎の論点を持ち出して、男性側の問題点は救済が難しいというミスリードをしている点というのはそれがよく表れており、女性個人に責任を押し付けることは良くないとしながらも、男性に対しては(恋愛やパートナーのことに関して)個々人が自分の人生に向きあいながら対応せざるを得ないものだ。と主張する部分は典型的とも呼べる矛盾が生じている。

 

 また、関連する記事からの引用において、歴史的な経緯や生物学的な差異を根拠に彼は男性差別ではないかという論理に疑問を呈したり、論筋としてはおかしいのではないかと疑義を出してはいる。だが、歴史的経緯の有無によって差別かどうかを決めるという基準は差別の決定的な要因でもなければ、基本的に差別かどうかの重要な要件でもない。これはかつて下記noteにて批判したことであり、社会学的な主張である部分も批判したことである。

 法理論的には、従来歴史的経緯というものの要請は法文上の記述もなく、また歴史的経緯を鑑みるとするならば、これから差別とされたことと同様のことを別の属性にも起こさないという側面もあるという、基本的な部分を見過ごしているのである。


 生物学的な差異に関しても、女性の社会進出における場面で、出産や生理などといった生物学的なことが要因による採用を控えることなどに関して、反対論を展開してきたことを考えると、生物学的要因をそもそも主張する必要性もないのである。
 にもかかわらず、女性専用の街の肯定を主張するものではないといいながらも、差別で否定された論理をあえて持ち出して、生物学的なことに関しては考えてないのはおかしいこと、弱者男性論には性差別としては針小棒大であることなど、様々な理屈を用いている面を考えると、彼の主張は男性差別を認めないという、日本の現代フェミニズムと一致する見解を示しているとしか言えないのである。しかもそれは、分離主義というかつての人種差別の鉄板的なものですら、肯定的に扱おうとすらしているのではないかと思われるほどである。


3 かならずしも不当な主張だけなのか?


 さて、ここまで彼自身の論理について批判させてもらったのであるがもう一つの論点として、彼が定義する弱者男性論というのは、恋愛・結婚関係だけなのだろうか?女叩きという事象にもっぱら注力している勢力なのか?という主張が、果たして(弱者)男性論の主流なのだろうかというところだ。

 私の結論としては、それは違うといえるだろう。

 もちろん、そういった人が存在していることは否定しないわけではあるが、多くの場合、(弱者)男性差別というのは、多くは矛盾を矛盾のまま受け入れさせられることへの反発であることや、自分たちの趣味領域などまで巻き込まれて、一方的に奪い取られようとすることに対してのフェミニズム及びリベラルに対する反発である。

 そもそも論として、マスキュリズムそのものがそのほとんどがリベラルとの人権の適用に対するダブルスタンダードを批判するということが、歴史の多くを占めているといっていいだろう。

 女性専用、表現規制、親権・年金などの法制度から、問題発言一つに至るまで、男女における異様なまでの扱いの差というのはこれまで幾度となく指摘してきたことである。

 弱者男性論に絡んでくるだろう部分とて、オタク関連の表現に関して、一方的かつあいまいな基準にて表現を取り下げるべきだと圧をかけられたり、時にネトウヨや性犯罪者のごとく忌み嫌われるようなこともある。もちろん、フェミニズム側に都合のいい表現はそのまま温存されることも珍しいことでも何でもない。ささやかな趣味のレベルですら、昔のオタク差別の再現のよう拒否反応を示されながら、なおかつ反発せずに個々人で問題を解決する問題であるとして、ひたすら我慢をせよというのは無理があるだろう。

 また、恋愛や結婚に関しても、女性の社会進出と相まって語ると彼らの主張が必ずしも不当な物言いでないこともわかることである。

 従来、女性の社会進出というのは制限されていることは周知の事実である。「男は仕事、女は家庭」といったような言葉があるように性役割分担の下、一定の社会状況を形成してきた。それゆえ、男性に対しては甲斐性を求めるということも当然認められていたことである。
 もちろん、そういった性役割からの解放を目的として、女性の社会進出というのは進められてきたのであり、女は家庭という部分はそれに伴って批判されていったものである。
 性役割の解放という流れに伴って、男性も色々な役割を求められたり、別の役割をするべきだという流れができたのであれば、当然男性側としては必ずしも労働で甲斐性を発揮しなくてもいいはずである。
 しかし、記事にも指摘があるように上方婚思考といったものの流れ、さらには育児などのさらなる要求の増大によって、性役割開放どころか更なる熾烈な性役割を求めることが当然のごとく現れていたら、性役割開放という大義名分に重大な疑義があるのではないかという疑問を持つのは当然であろう。
 そう考えれば、不当とまでは言えない正当な批判を持ちうるのである。しかし、彼は女性の個々の責任という問題にするのは不当とし、一方は排斥しているのである。(もちろん、フェミニズムが男性個々人及び男社会などという全体的な言葉を用いてきて、男性一人一人に責任を追及してきたことは言うまでもなく、{というか、他人の意識や行動を何らかの形で変えていかないと、社会変革は困難である。}別件でもそれととらえられる主張は確認することはできる。)


 彼の主張はダブルスタンダードに満ち溢れている。 


4 警戒すべき迎合論


 その他には、この記事を書いた著者に関しては、進化心理学に関しても幾分かの造詣があるようで、男性差別論に対する論理に対して進化心理学的な観点を用いて批判を展開している部分もある。

 進化心理学においては、従来から道徳的な価値観を否定する部分があるとして、学問として問題にならないだろうかという批判がある。右派からも否定されることもあるが、リベラル・ポリコレ勢から反発を受けることが多かった。

 その動きもあって、進化心理学を研究しているスティーブン・ピンカー教授は学会追放運動をされるにまで対立を深めており、彼自身のそのことに関して触れている。

 こういった対立を防ぐために、あくまで学問的には道徳的な分野などには立ち入らず、あくまで事実追求としてのツールとしての役割に徹しようとする動きもある。また、人間は道徳的なことを整える能力も獲得しているのだから、それを踏まえてどうするかをまた考えていけばよいとするような言説で反論するケースもある。

 私自身としては、進化心理学に関しては、再現可能性がほとんどないことやエビデンスが不足していること、心理学そのものに対する再現可能性の危機などを理由に、進化心理学を採用するのは避けていた。
 学問としてはそれが当然ではないだろうかっと思っているし、プロの心理学の人からも再現性を危ぶむ声もあれば、別件にて碌なエビデンスがない状況にて情報拡散された挙句、その修正に奔走した経験からも、アマチュアの身分ではありますが、素人ながらでもできる限り確認が取れるような情報を意識することがあったため、進化心理学そのものを採用できなかったのであります。

 本当なら、これだけで進化心理学の批判は十分であると考えられるのですが、最近気になっているのは進化心理学とポリティカルコレクトネスの迎合しようとしている動きである。

 ここまで書いた内容でも、二重規範にあふれている彼の主張からは、フェミニズムに迎合的な部分と思われても仕方がないのは見て取れるだろう。確かに、ポリティカルコレクトネスという問題が学問分野に及んでいるという恐れも理解できるし、研究の場まで奪われることまでに発展するとなれば、及び腰になるのも無理もない。
 しかし、だからといって一見して男性学など批判する側面を見せながら、その結論が、論理破綻している内容にて制度的保障ではなく個人個人の在り方によるべきだとし、救済という観点から目をそらし、女叩き(本当は女叩きというよりフェミ・リベラルに対する批判が多いのだが)をするのはやめるべきといっている。結局は個人の努力及び女性(フェミニズム)に対する攻撃的な側面は取り除こうという、男性学やフェミニズムと同じような態度をとるというのはいただけない。(そして、この視点は下記記事にてすでに指摘させてもらったとおりである。)



 また、別の学者からもこれと同じような動きを確認することもできるのである。

「進化論(適応主義)が保守派に悪用されている」と考えているからだ。とりわけプラムが怒りの矛先を向けるのが「マスキュリズム(男権主義)」の擁護だ。
フェミニズムは男の攻撃性を「トキシック・マスキュラリティ(毒々しい男らしさ)」と批判する。それに対して保守派は、進化心理学を“誤用”して、「生物学的に決まっているんだからどうしようもない」と反論する。「男に攻撃的になるなというのは、ニワトリに向かって“空を飛べ”というのと同じで、不可能なことを要求している」というのだ。――リベラル(プログレッシブ)はこれを、「エビデンス至上主義」という「科学の名を借りた差別」だとする。
それに対してプラムは、こうした無益な論争から距離をおき、「フェミニズムは進化に埋め込まれている」と述べるのだ。

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 価値中立的な判断を求めながらも、それを自ら破り価値判断をするだけではなく、他人から受けた倫理的・道徳的批判を自分自身が行うことにより、自身の学問をゆがめるだけではなく、他人から受けた批判に対する反論にすら背く行為を行っているのである。

 更には、いろいろなところで幅を利かせているフェミニズムやポリコレの影響力があることに加えて、余計なお墨付きまで与えることによって、抑圧の正当化にまでつながってしまうのではないか。それが私が最近進化心理学により抱くようになった懸念である。

 曲学阿世としか言えないものであり、学問としては死を意味するのに等しいといえる。


5 本当に留飲を下げているのは


 本当にこの記事で留飲を下げているのは、普段は(弱者)男性論を主張している人間に対して攻め込まれている人々であろう。記事の反応を見ていても、彼らに批判されがちなフェミニズムやアカデミシャン界隈からはこの記事に対する好意的な反応というものが多かったのがその証明だろう。

 彼はフェミニズム批判的な部分も持っていながらも、そんな彼に批判的になっていないという部分は、どこかで彼の本音の部分をわかっているからこその反応だと考えられる。

 そして、アマチュアチックな部分にも批判的なことが書かれていたが、プロである人々などにとっても、アマチュアな人々からの攻撃にあまり快い反応を少なからず持っている部分もあるからこそ、彼に対する批判も和らいでいるの一因になっているのではないか。プロとアマチュアという身分に関しても何か刺激を加えているのではないかとも、見えてくるのである。

 そして、一見するとプロを批判しプロがもっと問題意識を提示するべきだとして

弱者男性のつらさとは厄介で困難なものである。だからこそ、アマチュアに任せるのではなくアカデミックな世界で正面から向きあって扱われるべき問題であるのだ。

 とは書かれてはいるが、筆者からすれば本件記事の作者も同じ穴の狢である。男性学などの話についてわかっているにもかかわらず、わかったふりをして自分が高みにでもいるかのような形で物事を判断している。だが、実態は現代フェミニズムや男性学と同じような主張を繰り出しているだけで、味方のふりをしながら、実質はこの状況に加担しているのである。

 自身とて、学問を曲げてまで媚びようとしている情けないプロの一員でしかないのである。そして、彼が批判したアマチュアとされる私ごときに、かようなまでに反論をされるほどの内容を書いてしまっている未熟さを少しは恥じてほしい。

 こんなことをしても、幸せどころか学問的真実や一貫性にも何ら寄与しないことだからだ。



その他参考

弱者男性論の考察として



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