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性加害への怒りの行方と分断

 性犯罪において、他人との連帯というのは不可欠な要素である。申告率の低さからも見るように多くの人は泣き寝入りをするようなことも多く、一人ではなかなか立ち向かうことは難しいことを示している。
 それ故、他人の手を借りながらなんとか性犯罪から立ち向かっていくようなことをしてきたものであり、過去に様々な性犯罪に対する社会運動や制度制定、啓もう活動を行ってきたわけである。

 性犯罪に対する取り組みは多くの人の共感と、連帯を産んできたものではあるが、近年の動きを見ているとより大きな分断を生み出すのではないかという懸念がある。
 それは、性犯罪に対する無理解や悪意のある意識を持っている人との分断ではない。善意のある者、普通に生きている者とでも対立を生み出しつつある。

「レイプ犯はあなた」という抗議


 

 チリから始まった性犯罪に対する抗議運動である。「A Rapist in Your Path(そこにいるレイプ犯)」というタイトルの歌と踊りを多くの女性が行っており、各国で同じような抗議の広がりを見せた。

 内容としては、基本的には女性に落ち度があるというようなことはなく、レイプ犯が無罪放免になっていることを許さないというようなことである。
 女性を苦しめているのは、レイプ犯だけではない。刑罰を科す裁判所や国家、首脳といったところにまで及び、その裏には男尊女卑的な価値観がそうさせているとしている。

 動画などを見たうえで、男性的な価値観やワードへの批判、広がっていく責任に対する対象を見ていると、男性側に対しての攻撃的な非難ではないか?と考えた人がいるのではないか?

 何もしていないにもかかわらず、他人から責められる側としては不快に思うことこの上ないだろう。やったのは無辜の民ではなく、犯罪者そのものであり、犯罪者個人が行ったことを咎められるいわれはない。
 男尊女卑的な価値観を前面に押し出したうえで、いろいろなところが女性を抑圧していると主張された時、それらを選んだものや作ったものは何だろうか?と更に問うことになれば、おそらく彼女たちは「男性」と答えるのではないだろうか?男性を無限定に設定しているととらえることも無理のないことだ。

 これは、レイプを容認している者に対して行っている者であり、すべての男性のことではない。とする声もあったが、男性に対する敵意がないというのであれば、「レイプ犯はあなた」というワードをもとに、男性そのものを連想させるようなワードは控えることが良かったのではないだろうか?疑問に対して、攻撃的な人に対して、もう少し控えさせることも考えるべきだったのではないか?(また、すべての男性のことではないといいつつ、これに拒否反応を示したものも、レイプ犯擁護と同義であるような言説も見受けられたが、それも男性に対するさらなる忌避感と批判対象の広がりを示しているといっていい。)

 性犯罪において、女性に対する自衛論を展開しただけでも大きな反駁が出るほど相手の意見や表現に繊細に反応するわけでもあるのに、何故ここではその繊細さは発揮できないのだろうか?


見え隠れする性役割の強化

(1)警備兵という名前の男性たち

 他者に対して攻撃的に喧伝し、性暴力に対するているのかと思うような内容ではあるが、性役割の強化という面も見え隠れする。

 歌の最後の方に、恋人に対して警備兵というワードを使っている。もちろん、この警備兵というのは他ならぬ男性だろう守る人間もいるのだから、すべての男性を責めていないという理由になる!と強調することにもなるという人もいるだろう。

 すべての男性を責めていない点は先に紹介したものや、これから紹介するが、ここではなぜ恋人を警備兵といったのだろうか?恋人に対してこのような表現をするのは聞きなじみがない。
 警備というのだから、当然恋人となる男性が女性を守ることが前提で出されているのだろう。性犯罪から守る人間は別に男性に限る必要はない。老若男女問わず活動すれば問題はないはずだ。

 敢えてこのような言葉をだしたのは、男性に庇護者的な立場である面を垣間見ることができるのではないか。

(2)他の事例でも男性ははっきりと役割を求められている。

 
警備兵といっても、それは単に自分の大切な人を守ることを示しているだけであって、何も男性全体に広げた話ではないのだろう。と考える人もいるのかもしれない。

 だが、そう考えたくても、別件を見るにそうでないことが考えられるケースがいくつか見られる。その一つが、かつて#metoo運動というものが盛んになったときに、男性から#HowIWillChange というハッシュタグがはやったときのものである。

 このタグの意味合いとしては、metoo運動をもとに男性が性暴力について協力していくことについて情報共有や抵抗を示すものとして利用されていたものである。
 だが、リンク先の記事内容を詳しく見てみるとわかるが、「すべての男性ではない」というワードを利用するものはレトリックであると判断し、「慈悲深い性差別」を進めていると非難しているのである。
 おかしな話だ。性暴力を犯していないものが責任を負うようなことがどこにあるのだろうか?特定の集団のすべてがそうでないことくらい普通のことではないだろうか?ちょっと考えれば変だということがわかるはずであり、特定の集団を一律に扱うこと自体がまずいことも十分に承知しているほどの常識ではなかろうか?

 また、慈悲深い性差別というのは、本来は「女性は男性によって守られることが大事なことである」といった態度のものである。男性が女性のために行うチャレンジというものこそが慈悲深い性差別であり、批判されている人のほうがそういった態度をとっていないのではあるが、何故か価値観が逆転しているようである。

 他には、女性専用車両に反対する会の抗議活動を止めた人々に向けられた反応にも似たような傾向がみられた。ツイッターの反応で男性が協力してくれたことを強調するものがフェミから見られることも、また同様であることを示してくれている。 (そもそも、女性専用車両自体が男性であるが故の我慢を求めているものでもあるが。)

 多くをあげると話が長くなるゆえやらないが、性犯罪関連でこういった動きは珍しくはない。

(3)本来のリベラル的立場と男性性

 性暴力反対運動のどこに性別を強調する必要があるのだろうか?より多くの人に賛同を得ることを目的としているのだから、男性にも協力をしてほしいというのはわかる話ではある。
 だが、リベラル的価値観を前提とするのなら、性役割から解放をうたっているはずだと思うし、フェミニズムの本来の目的も女性性からの解放が目的だったはずだ。

 ならば男性にだって、役割意識をなくし開放する方法をとるべきではないだろうか?というのも論理必然的なことである。協力したいものがすることであり、そこに性別といった属性を持つ必要はない。が、上記を含めた反応を見ただけでも、誰がそんなことを想像できたであろうか。

 役割や抑圧からの開放的な思想の持ち主が、男性ということを理由に新しい性役割を負わせているのである。


 怒りは周りを見えなくする。


(1)怒りで得るものと失うもの

 怒りという感情は、他人に対して良くも悪くも大きな影響を与えるのは言うまでもないだろう。怒りを共有することによって共感し、連帯して事に当たることは社会運動の発展にはつきものだったといえる。

 だが、怒りというのは同時に理性的なものも失わせることもまた明らかである。自分たちの怒りを前面に出すあまり、他人に対する思いやりや考えに意識が向かないということも、説明することもないくらいには理解できるだろう。怒っている相手を見たりすれば、他人が自分を恐れたり、避けたりすることもあるとわかっているはずだ。

 怒りによって、冷静に考えることを忘れてしまい、十分に考えないで行ってしまうことで、矛盾や対立、繊細さを欠くを生み出しているのは、ここまで書いた内容だけでも十分に理解できるだろう。

 その他でも詳細には触れないが、フラワーデモのように無罪判決を許さないとする運動でも、判決内容を知らない間に判決を批判する運動を起こしたり、民意で判決を覆す危険性といったものが散々指摘されていた。この件は、本職の弁護士が大きな懸念を示すほどであったが、運動側とわかりあうことはついになかった。本当なら、止めるべきところでも止まらないところまで来ていても、話し合いがまともにできはしない。

 連帯をしていくことが必要なのに、相手に対する理解が得られないような自分たちの一方的な主張を行うことは、社会運動という行為といえるのだろうか?

(2)協力する男性と男性が背負うもの

 普通の人なら性犯罪を擁護することなぞないだろう。心情的には性犯罪を犯した人を裁くべきであり、手続きにのっとった行為で正当に裁かれるなら問題にはしないだろう。

 だが、セカンドレイプというワードを代表に悪意がない意見であっても、性暴力を許さない側から攻撃されるようなこともあるように、意見自体もしにくい環境がそろっていると、なかなか女性に対する被害を防ぐ手段をどうするのか困ることにもなる。
 自衛論すらも展開しにくいとなると、何をすることが残るだろうか?と考えると、男性が直接被害を抑えること、男性が我慢することを容認することである。

 先に紹介した話以外にも、日本では現に女性専用車両のように男性に一定の不利益を与えても良しとするような制度や発展型で女性専用の街のような話が存在している。本来なら議論の余地はないといいたい代物だが、撤廃される動きもない。

 最終的には「同意の有無を被告人側(男性)に立証させる」まで行くだろう。現にスウェーデンでも証明責任を転換させるようになってきたいることもあれば、日本でも署名が集められたケースやかつての改正案で暴行・脅迫要件を撤廃しようとした話もある。
 一般人レベルでも合意の有無の立証は困難であること、同意の反故されるケースなど、冤罪懸念が出ることが目に見えてわかるレベルだ。

 もちろん、同意の有無の水かけ論が男女ともに展開されることも考えられるが、誰が誰に対して訴えているのかを見ていれば、男性側に主だった負担が来ることがわかるだろう。

(3)警備兵という庇護とサンドバック

 無限定にも見える男性への責任の追及、新しい性役割を負わせるような義務感を求めながら協力せよといわれても、ついてくるのはだれなのだろうか?
 
意味もなく、攻撃されつつ責任を負わされることに忌避感情や戸惑いを感じることも、また人間としての当然の怒りである。その怒りを逆に投げかけられたときに、誰かまともに答えたことはあるだろうか?行き過ぎた行為を止めることが運動側にできただろうか?

 そして、男性が色々なものを背負う傍らで、女性は性犯罪というものからどんどん負担なく解消されていくことだろう。その実現のために、男性というものをさらに叩いて保護を求めていくだろう。
 この矛盾こそが、訴えかけられた側には大
きな断絶として大きく立ちはだかるのである。

 連帯を生み出そうとしているのに、分断を生み出すという本末転倒な行為が実に男女論らしいが、現実でそれを起こそうというのはたまったものではない。男性は警備兵でありサンドバックという都合のいい家父長制を背負ってはいないのだ。少しは弊害を考えてほしい。



 性加害を受けたあなたは被害者であり、苦しい思いもしてるだろう。あなたとその支援者たちは加害者を批判し、忌避したい気持ちもわかる。だが、あなた方を見ている人もその姿を見て、批判・忌避し、加害者だとみられる可能性も忘れてはいけない。

(その他参照)


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