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弱者男性論の発端と推察

 

 発端がいつだったのか。正確な時間はわからないが、インターネット上で弱者男性論を見かけることが多くなった。私自身が発見したのは大体2015年くらいの頃で、それ以前からの情報としてはあまり見たことはなかった。
 弱者男性論は弱者男性という言葉そのままだけではなく、様々な形で表現されることもあり、「キモくて金のないおっさん」や「非モテ男性」などといった形で表現されるようなこともあり、現代ではネット上では男性差別関連の言葉として定着したとも言えそうなほど、見る機会というのが多くなった。

 以前にはなかったこの言葉であるが、意外にも現代における弱者男性論とは一体どのような経緯ででてきたのだろう?と言うことはあまり触れられていない。時折それらしい解釈をされている人物も見かけるが、私自身が考えるにあまりいい解釈論ではないように見受けられるものもあったりする。

 そこで、推察ではあるがいくつか弱者男性という概念が興隆したのかについて、考えられそうな経緯を元に考察していきたい。

1 男性学に関して

 一つ考えられるのは、男性学の影響ではないだろうか?ということである。

 男性学は、男性が男性であるが故に苦しみを負っていたりするものを解放しようとする考えを基本前提にしているもので、男らしさに苦しんでいる人=弱者という構図を基にして生まれたのではないかという仮説は考えられる。

 しかし、男性学そのものというのは影響力がかなり低いと言って良い。名前すら知らないという人もいるくらいであり、内容も具体的な手法や論理的な構築もさしてないものであるため、あまり実践的な部分がない。

 また、男性学というのはその性質上、アンチフェミニズムといったような分野からも批判が強い。男性のつらさを認めて男性性から降りたからと行って、その先にある幸せの保証もなければ、更なる男性に対する男性らしさを求められると言うことは、何度も指摘されてきたことである。

 男性学というのは、影響度合いとしてはかなり低い。

2 自発的な弱者としての抗弁か?

 

 もうひとつ考えられるのが、男性側の弱者が自発的に発見したことによって、男性側にも差別があることを主張してきたのではないだろうか?という考えである。

 男性側にも弱者になっている人がいる。そして、私たちこそが弱者なのだから、差別されていると主張することが出来る。支援も必要であるという考え方である。

 一見すると、当事者が問題に気がついてそれを訴えていくことに関しては、他の差別問題でも見受けられることであり、不自然なことでもない。近年のマイノリティーにおける差別の発見も、こうした側面があることを否定できないだろう。

 だが、この論は一つの欠陥がある。それは男性としての弱者性を見せたとしても、それは世間及びリベラルからは同情の対象としてはかなり弱く、それどころか更なる非難の対象になるからである。

 例えば、男性の自殺というのはいい例だろう。男性の自殺というのは女性に比べれば常に多い状況にあり、近年は減少傾向にあるとは言えるが、2000年頃を境に男性の自殺者数は急に増えたりと、男性の自殺というのはかなり多い傾向にある。

 男性の自殺が多いのなら、男性に対して何らかの特別な対策や是正手段というのが講じられていてもおかしくはない。だが、つい先日のことでも皆が知っての通り、ちょっと女性の自殺者数が増えたとなったら、途端に女性の自殺に関して焦点を当てたことは記憶に新しいだろう。

 この件以外でも、女性が自殺してしまったら報道が一斉に女性の自殺に関してまるで大きな社会問題であるかのように報道されることはあったが、男性の自殺に関しては、すぐ側に死んでいる数が多いと言うことが書いてあっても、触れられる事がない。

 また、自殺に関する相談というのも、男性よりも女性のほうが相談件数が多いという調査結果もあり、表面的に女性のほうが問題として見えやすい部分も多くあるため、より男性が問題になりにくい側面もある。

 その他にも、男性蔑視的なCM表現も既存のリベラルから取り上げられることはほとんどないことや、草食系男子やオタクという男らしさからおりた者に対する侮蔑や迫害めいた言動をあびせかけられること等、何度も他者からより責められる部分を見てきただろう。しかもそれが保守だけではなく、リベラルからも浴びせられるのだからたまったものではない。

 そして、これらの問題を訴えてきても、ほぼ無視されてきたこともマスキュリズム問題を扱っている人々にとっては、よく知っている話ではないだろうか。

 弱者性が優位に働くのであれば、もっと最初の段階から有効な主張として利用されていたとしてもおかしくはないだろう。だが、弱者であることは男性の場合は有効に働くケースというのはほとんどないと言って良い。
 更に、元々ある男性は強くあらねばならないという性規範のことも考えれば、自分から弱さを見せることはより不利に働くことにもなる。

 弱者であることをPRするよりも、それを見せずに不当性を主張することのほうが戦略的にはまだ有効にも見えることから、この筋というのは実に考えにくいのである。

3 「強者」「弱者」に対する対抗言説

 ジェンダー論に限らないのであるが、リベラル陣営における言説の一つに、強者と弱者という二元論に対する対抗言論ではないかと考えられる。

 簡単に説明すれば、強者の存在である側が弱者を虐げるのが差別の構造であり、弱者が強者を差別するというのはあり得ないという論理である。マジョリティーとマイノリティーというような言葉があるが、力関係を元にマジョリティーこそが差別や抑圧をする権力があり、マイノリティーは権力なく左右されるたちばだからこそ、常に差別されるという仮定により、マジョリティーは差別されないとされると言う考えも同じ構造である。

 もちろん、この当てはめに寄れば、男性は強者で女性は弱者であり、男性が強者であるのだから、男性が差別されることはあり得ない。と言うような流れで説明される。こういった考えはリベラル勢力の中には確かに存在しており、男性だけではなく、日本人や白人と言った属性に応用されるケースもある。

 これに対抗するために、元々も平等というルールの中にはそういった区分けで判断されるものではないという反論もあるが、もうひとつの方向性として、男性にも弱者はいるのではないかという考えが生み出されたのではないだろうか。

 現実的に考えても、世の中を動かすのは男性の中でも一部であり、その他の男性は普通に働いているだけの人や、ホームレスになったりするような貧困にあえいでいる人、病気になって働いたりすることも非常に困難な人など様々な人物がいる。そして、保護が必要な人がおり、現実的に迫害されているのであれば、それこそ別なく助けを出すというのは、変なことではないだろう。他の属性の時に対しても、同じようにしてきたのだから。

 現実的にも無理がなく、また有効な反論としても十分な機能が存在するため、対抗言論として出てきたとしてもおかしくはないのである。

4 結び

 以上の検討からすれば、弱者男性論というのは相手方の反論に対して出してこなければならなかったという事情が一番考えやすいのではないだろうか。

 やむを得ず出さなくてはならなかったという事情があり、そうしなくては相手の言論に対抗できなかったのだから。自発的な側面よりは自然に出しやすい面も大きく、少なくとも発端としては差別をされているのは男性であると言いたくてやっているわけではないといえよう。

 その後、言説が広がるとともに弱者性に関して気がついていく人々も増えていき、弱者男性に対する論もそれほど抵抗なくできている人物も増えていったのだろう。マスキュリズム研究というのは、あまり研究者がいない故にわかりにくい面も多くあるため、数年程度のことでも発端自体がよくわからない人物というのも増えているのかもしれない。

 今後の弱者男性論がどう発展していくのかはわからないが、研究や考えが増えて行くに従って、また新しい発見というのもあるかもしれない。

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