すぐわかるトランス女性と女性用スペースの問題点

 

 トイレや更衣室や浴場などという場所は、男女の性別で分けて運用されている。服を脱いで裸になるようなことは、公の場においてはタブーなことであり、裸を見られることまたみせられることによる性的羞恥心から保護するためにそれらの空間は例外的に分けられている。

 そのような空間の取り扱いにおいて、近年トランス女性という属性が入り込んでくることが問題になっている。

 トランス女性のことを簡単に説明すると、肉体的には男性としての体ではあるものの、性自認(自分の性別は自分でどう思っているのか)は女性であるという人だ。その人としては女性であるのだから、男性として取り扱われることに違和感があり、できれば限り女性として取り扱ってもらいたいという願いがある。

 だが、トランス女性といっても肉体は男性そのままの人もいれば、ある程度適合手術を行っているような人がいても、身体的特徴に男性らしい一面をのぞかせる人などもいる。そういった人たちが女性の空間に入り込んでくることは、従来の慣習を鑑みれば拒否反応を示されるのは仕方ない面もある。

 この立場で考えれば、まあ慣習が慣習だからトランス女性が入れないのもやむを得ないだろう。といった感じで、端から見ている分には簡単な話で終わりそうだが、割と厄介な教義を抱えているからだ。

 過去にも同様の記事を書いたが、あたらめて問題点を分かりやすく解説したいと思う。

1 反対側の立場 ~単純明快な論理~


 
 先にも触れたが、反対する側の理由は単純明快である。性的羞恥心の保護を目的として、トランス女性が侵入することを拒むということである。

 トランス女性側としてはそのつもりはなくても、女性側からすれば男性が入り込んでくるということ自体、嫌悪感を示されるであろう。男性に裸を見られている感覚、および特に施術前のトランス女性だとそのまま男性の裸を見ることになるのだから、その違和感を受け入れ、我慢するようなことはできかねるだろう。

 もう一つ大きな理由があるが、それはここではあえて挙げない。

2 賛成側の立場 ~教義に殉じるもの~


 賛成側にももちろん理屈はある。一つは多様性という概念だ。

 いろいろな属性の人が一つの空間にできる限り共存することによって、だれもが悩んだり苦しんだりするようなことなく社会に受け入れられる社会を実現しようとする試みである。

 トランス女性であっても、女性の中に受け入れられるように存在してもいい。もし可能であれば、できる限りいろいろな属性の人の中に加われるような立場でいられるようにしたい。そういった寛容さを推し進めていくために、その一環としてトランス女性が女性用の空間に入れるようにしたいのだ。

 もう一つはマイノリティーとマジョリティーという対立概念であろう。

 どういった対立が問題になるのかを簡潔に書くと、マジョリティーの人間は数が多いことを理由にマイノリティー側の権利を脅かすことがあり、そういった面を回避するために一定の配慮を要求できる。 と考えればいいだろう。

 人間が本来持っている権利であり、多数の意見をもってしても奪えない部分まで奪われることを防ぎ、マイノリティーの権利を守っていこうという観点から、優先的に権利保護をするべきであるという理念がある。
 
 この場合だと、女性という枠の中に入ることによって、トランス女性がトランス女性らしく生きられる権利の保護するものと考えてくれればよい。

3 反対側は問題を抱えているのか?


 一般の人から見れば、反対側に分があるようにも見える。が、一つ厄介な問題がある。

 それが性犯罪防止論である。端的に言えば、男性がトランス女性に成りすまして性犯罪を行うのではないだろうか?と懸念しているのだ。理屈的にはよく見るもので珍しくもない。

 だが、犯罪抑制のために特定の属性を一律に隔離するというのは筋が悪すぎる。国内ですらいくつかの判例では違法認定をされているし、過去に起こった人種差別事例を鑑みても、否定してきたことに著しく反するからだ。トランス女性にも当てはめようとすれば、彼女たちも性犯罪者予備軍であるという負のレッテルを張られる危険性がある。

 また、統計的差別という理屈からも一部の人間が行った行為をその属性全体の責任にするというのは、個人主義の観点などからも否定される理屈になりやすい。

 普通ならその防止をするために全力で避けるのがリベラルの責務なのだが・・・・。

 いざ自分たちの番になったときには、認めたくないといい始めた。しかも、この理屈を使うものには、普段は自分たちがマイノリティーとしての権利を享受しているものもおり、余計にその矛盾を表に出している。

4 賛成側にも後ろ暗い過去がある


 では、賛成側こそ筋を通しているのかといえば全くそうではない。過去のnoteでも指摘したが、賛成側は賛成側で反対側の理屈を認めてしまっていた過去がある。

 女性専用という名前の車両、プリクラやマンション、カプセルホテルのような女性専用空間といったところにおいても、性犯罪防止という観点から、男性の一律排除は問題ではないし、差別ですらないとやってきた。

 無論、賛成側としては、マジョリティーやマイノリティーの関係性を持ち出したいだろうが、その理屈を相手側が納得していないし、そもそも採用もしていない人もいる。

 また、何か理屈をつけて認めようとしたところで、犯罪そのものを防止はできるわけでもなければ、同じ理屈を別のところで認めておいて、今更反故にする行為でもあるから反発するのも無理はない。

5 賛成側も反対側もお互いに理念に背いた考えが存在している


 トランス女性の問題については、お互いに問題点や矛盾点を抱えながらお互いに知らない顔して自分たちの利益を追求している面があるため、なかなか解決がつかない原因になっている。

 まあ、もちろんのことではあるが、賛成側でも出来る限り筋を通そうとする人もいるだろうし、反対側にも犯罪抑止の点を避けて、性的羞恥心に限定することにして、現状継続をしようとする人もいるだろう(おそらく、普通の人からすれば、ここが一番落ち着く。私としてもこのあたりで落ち着きそうだと思っている)。

 お互いに譲らないし、お互いに正しいと思っているだろうが、普通の人から見たら実にくだらない論争としかいえない。それだけのことである。

おまけ


 一応、この問題について最悪の解決方向があるとするのなら

①    とりあえず、犯罪対策という側面を肯定して、トランス女性を排斥する(性的羞恥心の話は伏せられる)
②    そのうえで、女性用だけを確保して男性側のトイレに押し込み、ユニセックストイレの普及もほとんど進めない
③    マジョリティー・マイノリティーという関係性といった従来の教義に反しながらも、その責任を問われることはなく、責任は男性側にすべて押し付ける

 だろう。犯罪対策のことについてはいつも通りとしつつ、マイノリティーの権利を後退させて、マジョリティー優先という教義違反をする。そんな程度ならまだいいほうであるが、マイノリティー側の権利を守れなかったのは男が悪いとして、直接争いにかかわっていない属性を攻撃し、憎悪を別の方向に向けることだろう。

 女性側の事情を優先した結果にもかかわらず、取り決めもしてないことに急に責任だけかぶせられて、女性だけではなくトランス女性からも憎悪を向ける対象にされてしまう。もちろん、ユニセックストイレ自体も盗撮などの懸念から普及は進まず、トランス女性は男性用のものを強いられる。

 リベラルの発想を全部捨てて、なおかつ女性側の利益だけが優先され、責任と負担だけ男性側に放り投げられる。これが最低の発想レベルの解決であり、割と実現しそうな面もあるのも困ったものである。

 実現しないことを願ってはいるが、日本におけるジェンダー論争はあてにならないし、ごく当然に一線を越えてくるのでしゃれにもならない。

 こんな発想に至ったのは、単に個人の妄想だけではなく、現実にこんな提案をぶつけてきた人がいたからである。

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