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白状日記

先日、上野の鈴本演芸場へ久しぶりに落語を見に行ってきた。

初めての落語は高校生の頃、社会見学の一環として地元の会館のような大きなホールで観た
桂歌丸師匠の落語だった。
あの時はテレビ「笑点」で見たことのある芸能人だ!くらいの気持ちだったので、遠くから小さい歌丸師匠を観ただけで、落語面白いな〜とまでは行きつかないままだった。

東京へ移り住んで、「面白いよ」と落語好きに勧められて「じゃあ」とついて行ったのがきっかけとなり、それからは落語へ行けば学生の頃のように退屈することもなく、今では落語はちょっとした「ハレ」気分を味わう出かけ先になっている。

落語は度々足を運んではいるけれど、観て楽しむだけで一向に詳しくならない。

噺家さんが、挨拶程度によく言う
「ただの笑い話でございます。難しく考えずに、どうかお気軽に楽しんでいただければと思います。」
を、キレイにそのまま受取り、聴いたそばから笑って忘れて、観た後は噺家さんの名前すら忘れてしまう。

誰某の「芝浜」はいいよ、とか誰某は誰のお弟子さんだよね。と、他の人と落語の話ができるほどに至っておらず、私にとっての落語、いつまでもそんな手触りと距離感。

噺家さんの熱量を感じられると、もう充分に満たされて、それ以上に発展しない。
観たあとはすっきり爽快、満足してしまう。

落語だけじゃない。音楽や映画や料理など割と好きな事に関しても。もしかしたら人付き合いも、全てに対して私はそうなのかもしれない。
腹八分。八分もいいすぎか、腹六分くらい。
(食べることだけは腹九分くらいだな。)
深追いしないと言うより探究心がないのか、できない。

それでも10代、20代の頃はあらゆる事に腹120分目で生きることに立ち向かっていた気はする。
人に大いに期待して絶望したり、憧れたり。
人間関係はとくにお腹が破裂しそうなほど悩んでいたように思う。
それを繰り返して、徐々に自然と自分のチカラ加減を覚えたのか、ゆるやかな妥協なのか。
あらゆる面で腹六分目。

40代はさらに自分の中の薄情さが、朝日がのぼるようにゆっくりと、向こうのお山の方から顔を出しているのが見えてきた。頭ちょっと出てきた薄情様が、ニコニコと光輝いてるのが分かる。一度のぼりだしたら、もう下がりません。薄情様、いっそ昇きっていただくしかございません。と、己の薄情さに目を閉じ、手まであわせたくなってきている。

未熟で、つまらない事ばかり考えるクセがあったから、己の薄情様の姿を見つけて、どこか気楽になった。

こうして40代、徐々に図太くなっていくのだろうな。大きくなれよ、グリーンジャイアント。

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