猫と鼠のめも

島の端っこの、海の見える館にその男はいる。「島」とは言うものの、完全に独立しているわけではなく、すこぅしだけ、大陸と地続きになっていて、周りを海に囲まれている。そんな土地だった。
 男は猫と呼ばれていた。猫は金魚を飼っていた。おかしな話だ。
 男がなぜ猫と呼ばれているのかは知らない。たぶん、いつも寝てばかりいるからとか、そんな理由ではないかと私は考えているのだが。聞いたこともないし、聞こうとも思わない。あの島にはそういう空気があった。どうしてか、なにか訳ありの人間ばかりが島には流れ着いていて、必然的に、過去を詮索するようなことはご法度、という雰囲気があったし、そんな不文律を私も、島の住人たちも気に入っていた。

 猫が住んでいる館には、色々とおかしなところがある。
 見た目は完全に西洋式のそれなのだが、畳敷きの部屋があったり、シャワールームが各階の東と西の両端にあったりする。
 かなり広い屋敷だというのに、住んでいるのは猫だけだというのもおかしな話しだ。これだけ広い屋敷に住めるのならば、使用人もそれ相応に雇えるだけの懐があるだろうし、手入れには人数が必要だろう。だが実際には、猫が一人と、猫の世話をしに来る使用人が一人、たったそれだけ。使用人も食料を持ち込んで数日分を作り置いたら帰ってしまう。食料が尽きる頃を見計らったように、また数日後にやって来る。


「君はねずみと名乗るといいよ」
 ある日唐突に猫は言った。
「……それ、あなたと捕食関係じゃないですか」
「いいね、それ。食べる食べられるの関係ってやつだろ」
「どこがいいのか皆目見当がつかないのですが?よろしければご教授頂けるとありがたいですね」
「まあそうピリピリするなよ、俺と君の仲、そう、ホショク関係?の仲じゃないか!」
 まだねずみと名乗るかどうか決めてもいないのに、猫の中では決定してしまったようだ。いや恐らく、思いついた瞬間から決まっていたようなものだ。この屋敷では猫に逆らえないのだ。まさに猫に対する鼠のように。


 今はもう、私をねずみと呼ぶひとはいない。この世界に、誰一人として。そして私ももう、恐らくこのさき一生、人を猫と呼ぶことはないのだろう。ふとそう気付いてしまった。あの島はいま、暗く淀んだ水底に沈んでいるのだから。猫は島と一緒に沈んだのだから。
 本名を、素性を知られずに、自由に振る舞えたあの空間は、酷く居心地が良かったのだと今更に気が付いた。
 気付いただけで、特にこれといってなにか、猫に対する心境の変化があるわけでもないのだが、たぶんこれがさみしいという気持ちなのだろう。体の中心を突き抜けて、乾いた冷たい風が吹き下ろすような。口に出そうとしてつっかえてしまって、口から空気だけが抜けるようなそんな感覚。ようやく「さみしい」ということがわかったというのに、報告する相手がいないなんて。
「……残念、だな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?