羅生門2ndBattle 平安の女傑vs下人


 「んがっ!」
 羅生門の中、地上への出口から吹く夜風で老婆は正気を取り戻した。老婆は布切れの一つも纏っていない。ついさっき、突如現れたにきびのある男が身ぐるみを剥いでいったからである。
 ガス灯も警察もいない平安京の夜は寒く暗く治安も悪い。すなわち全裸の老婆は今、家路にすら辿り着けない絶体絶命の状況にいた。普通の老婆であれば諦めるだろう。諦めて、餓死か、死体から布切れをかき集めるかもしれない。
 しかし、この老婆は違った。この荒れた平安京で皺を重ねるほど生き抜いてきた意地と度胸は並大抵のものではなかったのだ。
 彼奴に追いついて、服を取り返し、逆に追い剥ぎし返してやろう。
 それくらいの気概はあったのである。
 老婆はなんの躊躇いもなく梯子を駆け降りた。かの盗人が去ってからはまだ少ししか経っておらず、とはいえ間に合うという保証もない——が、老婆の姿は一瞬で闇に消えた。平安の女傑に迷いなどなかった。
 
 一方、盗人である下人はぶらぶらと平安京を歩いていた。当然ではあるが、あんな萎びた老婆に凄まじいガッツがあるとは思っていないのでのんびりしている。とはいえ下人は摂津国から来たため、都に詳しくなく行先のあてもない。とりあえず道端の牛車をぼうっと眺めるだけだ。
「こんな気候と空気では嫌な心持だ」
 荒れた町の雰囲気とたった今盗みを犯した罪悪感は下人を不気味だと思わせるには十分。なんだか闇から物の怪の類が顔を覗かせていそうだ、と足早に小路へと入ろうとする。
 くん。
 下人の体は前には進まなかった。後ろから襟を引っ掴まれており、踏み出そうとした右足だけが宙をさまよう。
「何やつ!?」
「ふん、覚えておらんのか。気楽な奴よ。」
 冷笑と共に勢いよく体を突き出され、下人は大地に転がった。そうしてようやく声の主と対面した。
 裸体の老婆と。
「どわああああ!!」
 下人の悲鳴はそれはもう凄まじかった。服の裾を踏み踏み立ち上がり、老婆に背を向けて走り出す。下人が出会ったものは物の怪よりもタチも諦めも悪かった。そして下人も生き汚い。それだけ怖い目に遭っておいて盗んだ着物は手放さない。
 瞳孔をかっ開いた老婆も下人を追う。
「逃げるな!一本残らずその髪むしり取ってやる!」
「逃げるわ!」
 しかしながら下人は心のうちで安心していた。老婆に比べれば自分は若くて体力もある上、体格差もある。先ほどは油断していたから背後を取られただけで、全力で走れば撒けるだろう、と。
 その慢心が命取りであった。十字路をあちらこちらに走り回り、入り組んだ瓦礫を乗り越え、だいぶ羅生門から離れた頃合いのこと。順調に走っていた下人の目の前に、突如老婆が現れたのだ。慌てて進路変更しても、しばらく進むと老婆が行手を塞ぐ。その唐突さは陰陽術でも使ったようだった。
「ほほ、馬鹿真面目に道を行きよるの」
 下人は見た。その肋が浮いた細い体を捻り、ぼろぼろになった垣根の穴を通って小路に躍り出る老婆の姿を。
 そもそも、下人が摂津国からのお上りさんであるのに対して、老婆は長らく都に住んできている。経験値が違った。下人が知らない道を老婆は知っていた。下人がしっかり曲がり角を曲がっている間に、老婆は悠々と下人の現れる小路へと抜け道を通るのだ。
 それに気付いた下人は別の作戦に舵を切った。
 抜け道を通られてしまうのなら、抜け道なぞ存在しない場所に行って純粋な速さで勝負すればいい。
「大路だ、大路に出よう」
 頬を掠めた老婆の手を避け、老婆に突進。流石に怯んだ老婆の横を通り抜け、元いた大路へ戻ってきた。浮かんだ額の汗は、風がビュンビュン抜けることで表面から体を冷やす。体が震えてうまく動かなくなってきた。さらに、
「あ痛!」
 見れば、足裏が血で滲んでいる。これは薄い草履で瓦礫まみれ小石まみれの道を走ってきたためで、これ以上は全力で走れそうにない。しかし後ろからは老婆が猛然と迫っていた。絶体絶命である。
 へろへろと歩くような遅さで進んだ下人は黒い物体にぶつかった。眼前に充満したのは獣臭さ、耳に届いたのは「ぶも!」という鳴き声。
 いつぞやの牛車だ。黒い毛並みの牛は、突然汗でびちゃびちゃのおっさんにぶつかられ迷惑そうにしている。下人は恐る恐る人が乗るところ——屋形を覗いてみたが誰もいない。引手もいない。
「ならば……毛を婆に毟られるよりかは幾分かマシであろう」
 下人は、手にした刀で車と牛に繋がれた紐を切った。そして驚いた牛が逃げ出そうとしたのよりも早く、体を持ち上げて牛に飛び乗る。馬ではないから鞍もなく、人に乗られる経験がない牛の背は嵐の如く暴れたが、下人も必死だから全力で牛に残った紐を引っ張って対抗した。
「なんじゃあれは……」
 追いついた老婆もあまりの暴れっぷりに近づけない。牛の蹴りは実際人一人殺せるくらいの威力があるため、老婆は懸命であった。
「すまん!!急に乗ってすまなかった!!でもちょっと言うことを聞いてほしい!!頼む!!」
「ぶもー!」
 牛と下人の攻防はしばらく続いたが、だんだん牛が大人しくなっていった。それどころか、下人の紐の動きに合わせて足を動かし始めたのだ。
 下人と頭だけ振り返った牛は見つめ合う。この戦いの間に、互いは互いに認め合ったのかもしれない。ただし老婆には下人が恍惚の表情をしている様にしか見えなかったので、ただの恐怖映像であった。
「行くぞ!赤兎馬!」
「ぶも!」
 勝手に名付けた牛に指示を出し、下人は紐を引く。ちなみに赤兎馬は三国志に出てくるすごく速い赤い馬であるが、この牛は赤くもなければ馬でもないので大間違いである。
 ところで、牛はそののんびりとした見た目とは裏腹に走るのは大変速い。普通に時速二十キロメートル、時には時速四十キロメートル出るともいう。時速二十キロメートルで走れば、五十メートルは九秒前後。それに加えて卓越したスタミナ、普通の老婆を撒くには十分すぎるスペックだ。
 というわけで、牛は蹄の音を響かせ走り出す。下人の尻に硬い背骨が打ち付けられているが、後ろから迫る恐怖に比べればなんてことはない。
 思考を取り戻した老婆も走る。火事場の馬鹿力でブーストされた体力と脚力はまだ健在であり、留まることを知らない。
「流石の物の怪婆でも此奴には追いつけまい」
 直角に道が交差する平安京では、図体が大きく小回りが利かない牛は不利なはずだったが、下人の牛捌きはこれを的確にカバーする。牛はもう馬と思えるほどのスピードだ。世が世なら競馬と共に競牛も行われていたかもしれない。下人は天才騎手であった。
 対して、老婆も負けてはいない。老婆はここまでずっと裸である。袖などに布が多く、風を受ける下人に対して、最早老婆には風に煽られるところなど存在はしない。現代のスポーツ選手もぴっちりとしたユニフォームを着る競技がある。それは空気抵抗を減らすためだ。つまるところ老婆は今、空気抵抗を極限まで減らしていると言っても差し支えないのだ。
 そろそろ零時を過ぎる頃である。
「待てこの生意気な小童が」
「赤兎馬まで持ち出したら負けられんだろう!」
「それを言ったらわしはさっきから裸体で走っておる!負ければただの深夜の気狂いであろうが!」
 こんな夜更けにギャンギャン言い合いながら凄まじい足音と土煙を上げても怒られないのは今現在世紀末な治安のおかげ。さらに最初いた羅生門のある朱雀大路からくねくねくねくね曲がり続けた二人は、最早現在の場所など分からなくなっていた。
「なんだかだんだん立派な建物が多くなってきたような……」
 牛に跨り周囲を見回していた下人は異変に気付いた。逃走劇の初めはほぼ崩れかかった様なボロボロの家が多かったのに、今では立派な造りの家が多いではないか。道も先ほどとは打って変わって綺麗になっている。そこに、大声が響いた。
「と、止まれ!!そこの……変態と牛乗り!!」
 そう、二人は内裏近くまで来ていた。貴族の住む内裏の近くともなれば当たり前に見回りの検非違使がいる。今二人に声をかけてきた検非違使は松明を振りかざし、松明に照らされた顔は青白い。めちゃくちゃ怯えていた。それもそうだ。全裸の老婆と薄汚れた牛乗りはどう考えても不審者だが怖過ぎる。人を取って食うタイプの化け物にしか見えない。
「う、うわあああ!」
 ここで突然、怯えた検非違使の一人が身を守るように松明を振った。その火は牛の目前で火花を散らし、ぱちぱちと鳴る。
「ぶ、ぶもー!!」
 牛の唸り声が検非違使たちの間で響き渡った。火に驚いた牛はその四肢を暴れさせ、何人か蹴り飛ばしながら大路を勝手に駆け出してしまった。流石の下人も牛にしがみつくことしかできない。
「に、逃すかあああ!!」
 ここで諦めないのが老婆である。牛の尻に気合いと根性だけで取り付き、その枝のような細腕で張り付いた!
 しかし不幸なことに、コントロールを失った牛は明らかに豪勢な木の門に向かっていってしまう。流石にこれは庶民の下人や老婆にもわかる。
「だ、内裏じゃああああ!」
「悪いのは検非違使だろうがああ!」
 内裏へ続く建礼門を守る衛士をこれまたぶっ飛ばす。下人は祈ったこともない神や仏に全力で祈った。
「お願いしますお願いします死罪は勘弁してください悪いのは検非違使です」
「いや、どう考えても死罪じゃろ」
 一周回って冷静になった老婆の呟きと共に、牛の力強いタックルは門に風穴を開けた。それはもう絶対誤魔化しきれないくらいの大穴である。
「何事じゃあ!?」
「わしらもわからん」
 悲鳴を上げる内裏の関係者たちを牛の尻から眺めながら老婆はぼやく。どうせ待っているのは死なので最早どうでも良くなっていた。下人は下人で振り回されながら叫び続けている。
 人に囲まれてこれまた動揺した牛は止まらず、また門を飛ばし、人を飛ばし、綺麗に敷き詰められた白い砂利を舞い上がらせて、木製の階段を駆け上がった。
「あ、あなや」
 何故この時間にいたのか分からないが、既に就寝しているはずの貴族の一人が宙を舞う牛を見届けた。
「風立たぬ過ぐるばかりの此の世にも月を隠しし影ぞうちいづ(意訳・風も立たない、何も起こらない我が人生にも、月蝕のような驚くべき、不安になるようなことが現れるんだなあ)」
 そしてその貴族の冠を風圧で飛ばしながら、牛は着弾したのである。それに留まらず綺麗な薄茶色の床はミシミシと音を立て始め、暴れもがく牛たちを嘲笑うように沈み始めた。
「終わった」
「門はもう手遅れじゃしここまで来たら暴れてもいいであろ」
「冠があ、冠が飛んだ」
「曲者ーっ!」
 半身を新鮮な大穴に沈めた二人と一頭は、死んだ目で衛士を迎えるしかない。
「まあ最期に内裏を大破壊できたのは一生ものの思い出だな」
「今から死ぬんじゃからどう足掻いても一生ものじゃが」
 そう呟いた下人の頭に、パサっと冠が落ちた。
 
 
 この後であるが、下人は馬を超える速さの牛とその騎手としてなんとか朝廷の興味を惹き、命を繋いだという。老婆も老婆で巧みに逃げ切った結果、瞬足の婆という噂が広まり、物の怪として畏れられたようだ。これが後の、高速移動する老婆の怪談の源流となっていったのである。



※この作品はとある文芸コンクールに出したものの改訂版です。問題があれば消します。

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