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タイトルにある「300」という数字は本記事が「300本目の投稿」である、ということを意味しているわけではない、実は。
確かに私がここnoteにおいて投稿している記事のタイトルの大半にはこのような記事番号が振られており、連番となっていることも見受けられるのだが、特定の記事にはこれを施していない。
その理由についてはまあいつか語るとして、「300」という数字はなかなかキリが良いのでそんな数字に相応しい内容をこの記事では書くとしよう、などと私が言うとでも思ったか?

私はこのような思考を嫌悪する。
「0」や「1」という数字が注目されることは言うまでもなく、「2」、「3」から「9」までの1桁の数字に様々な意味が持たされていることもまた然り。(7はラッキーセブンなどとされるように。)
「10」や「100」、「99」などという数字もまたよく話題に上がる数としても問題なかろう。
「13日の金曜日」などと言われるように「13」もまた市民権を得ているとして、それでは「71」は?
「109」は?
素数という概念を知らぬ者は、あるいは数学者でなければ、数字に興味を持たぬ者であれば、ソウルナンバーを…
誰の目にも止まらぬ数字があったとしたら、その数字は如何ように扱われるべきだろうか。
数の概念が存在し、アラビア数字・ローマ数字などというものが常識的に使用される世界に私は身を置いている。
私に識字能力がなかったとしたら、この国で私はどのように生きただろうか。

私が生きる世界はあまりに狭く、諸外国を訪れ、本を読み学びを得たとして、それでも知らぬ世界は余りに広い。
格差を知ることに意味はあるのか、知ったとて何をするのか。

誰もが納豆を嫌うのであれば私は納豆を食べよう。
先日自販機で見つけた冷麺ドリンクを誰もが飲まぬのなら私はそれを飲もう。

存在してしまったのなら、誰もがそれを落としているのならそれを拾うことに私の存在意義を見出す。


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