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272. ショートショート恋

彼女にはPCR検査で訪れたパリの検査機関で出会った。
日本に帰国するために陰性証明書が必要だった私はその検査所に行き着いた。
受付をしていた彼女を一目見て思った。
「話しかけねばならぬ」と。

もちろん患者/顧客としては彼女とコミュニケーションをとった。
しかしながらそれでは不十分だ。
ポンパドールと言うべきか、ちょんまげと言うべきか
そんな彼女の髪型、顔に低い声
いまだ座り姿しか見ておらずという状態でも揺らがぬ事実が厳然として存在していた
「タイプである」と。

この機会を逃しては2度と会えないだろうと考えた。
今日検査をして、検査結果や証明書を受け取りに明日またここに来なければならない。
明日私がここに来た際に彼女が勤務しているという保証はない。
パリか東京か、はたまたどこかで彼女に偶然出会うことがまたあるかもしれない。
まあ言うてもおそらくそんなことはないだろう。
彼女とまた会うためにはここで接点をつくらねばならないのだ。

しかし現在、私の体調はすこぶる悪い。
鼻水は滝のように溢れ流れ、くしゃみはとめどなく私の頭を上下させ、高熱はさらに私の天才的思考力にケチをつける。
このような状態ではコミュニケーションに難ありか?
通常時であればめくるめく話術で彼女の心を射止めただろうか、一抹の不安が残る。
それでも今日の私の容姿コンディションはOKと言えるだろう。
スーツは決まってるし髪型も悪くない、肌の調子も悪くなければ身長はいつもながらに十分だ。

それではなにを躊躇することがある?
彼女に拒絶されることを恐れるか?
隣にいる彼女の同僚に嘲笑われることを恐れるか?
(いやおそらくこの同僚は私をタイプだと思っているに違いない。)
待機している他の客人に異質な目で見られるか?

このようなことは幾度となくあっただろう。
ときに苦笑いで断られ、ときには怒られ、ときにはビンタをされることもあった。
それでもときにその先が見えたこともあった。

何故いまここで行動を起こすことに躊躇する?
いわゆる成功も失敗も、笑いも悲しみもこの行動の先にあり、それらは私の経験となり血肉となり私を形成する。
ここで何かをしなければ後悔をすることになるだろう。

それでもまだ動くに至らないのは体調不良であるからか?
それとも動くに値するほど彼女は魅力的でないか?

行動に至る際に毎度このような思考をしていては埒が明かぬ。
とはいえ確かに私は歯磨きをするにもシャワーを浴びるにも、その行動に至るまでに時間がかかるのだった。
トイレに行くにも、今起きるか寝るかについても
腹が減ろうが痛みがあろうが
それらを無視してでも私は今
「思い悩むことに熱中している」のであった。

そうして考えているうちにもう色々と面倒になって私は検査所を出た。
そのまま帰ろうかとも思いつつ検査所入り口の前にあったベンチに腰掛けて考える。
「いや、やはり何かしなければならぬ」と。

そう思ったのも束の間、やっぱ今日はもういいやと帰路についた。
とその途中で財布がないことに気づく。
まずいぞと不安になりながら検査所までの道のりを戻る。
案の定財布はそこに忘れていた。

入り口のドアを開けると彼女がすぐに話しかけてきた。
財布を忘れてたからメールも送っておいたよ、と。(検査に関する情報伝達のために事前にメールアドレスを登録していた。)
優しい心遣いを有難う。
彼女から忘れた財布を受け取ってすぐに帰ろうとしたが、考える間もなく私は彼女に尋ねていた。
もしよければ今日仕事終わりにどこかで遊ばないか、パリを案内してくれたらとても嬉しいとかなんとか。
タイプであるとかどうとか、そんな話を伝えたのだっけか定かでない。
その上彼女が断った理由も、なんて言っていたか覚えていない。
少々のフランス語と、彼女にとってそう使用頻度の高くない英語を話す日本人である私。
パリに訪れる他の日本人がどのような振る舞いをしているのか詳しくないが、彼女にとってこれが1つなにか面白い経験のようなものになっていたら、彼女の仕事に少しでもなにか楽しみを与えられていたのなら幸いだ。
彼女と話していた際のあの笑顔と、隣にいた同僚のニヤつきを思い出す。
(この同僚はぜったいに私を狙っていたと断固として主張する。)

迷惑であったか、それとも喜ばしいものであったか
考えうることは山ほどあろう。
それでもあのとき私の心拍数は上昇し、ドキドキなるものを感じていたことは事実であると解釈する。
今後私がどうなろうとも、恋愛であろうが友情であろうがビジネスであろうがギャンブルであろうが何であろうとも
このドキドキに執着して生きることに変わりはないだろう。

月並みなまとめをして筆を置くことに不満を感じつつもここで

#わたしの旅行記

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