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知床・知西別岳

日程:1992年12月30日〜1993年1月2日
メンバー:先発隊 Fリーダー、Kくん、ぼく
正月隊 Eさん、Kさん、Sさん、ミツルさん

1.正月山行せまる
1992年も師走に入った頃、Fリーダーから計画書が送られてきた。そのめざす山は、奥遠音別岳(1019m)。決して高い山とは言えないが、アプローチが長い。1990年3月にミツルさんと羅臼側から登頂しているが、今回はウトロ側の真鯉林道から中遠音別岳・ラサの岩峰などを連ねる尾根をつめるルートだ。我が会が最初に手をつけたルートらしい。
雪の少ない近年であるし、アップダウンの多いルートであるため、計画書では4泊5日で予定が組まれていた。もう正月山行の季節なんだ。

2.偵察
12月26日、ぼくは林道の橋の状態を事前に把握しておこうと、一人で偵察に出かけた。国道334号線をウトロに向かう。遠音別川を渡る橋から山へ入る林道が真鯉林道だ。孵化場がある。
山スキーをつけて、雪のない林道をしばらくガチャガチャ進む。2.5キロほど進むと林道を左に分ける。これが二股林道といい、春の遠音別岳を狙うのに便利快適なロの沢へ行ける道だ。今回は分けずにまっすぐ進む。正面にルートである尾根が見え、ラサが天を突くようにスッと聳える。
5キロほど進んだところで橋が落ちており、渡渉不可能になってしまった。右の尾根にも登ってみるが、ブッシュと植林が密で難航した。やはり、ここは春のルートなのだろうか。また来た道を戻った。エゾシカが警戒音を発しては、一生懸命に雪の斜面を漕ぎ、冷たい川に浸り、林道を歩くだけのぼくから逃げていた。「ぼくは何にもしないのに」、それが野生なのかなと思った。海が近くなってきて、風が冷たかった。

3.計画変更
その夜、Eさん宅からFリーダーに偵察の報告をする。
「そうかー、仕方ないな。よし、ペレケ(知西別岳:ちにしべつだけ 1317m)にするべ」。
あっさりFリーダーは言った。それから、その第二案であるペレケの詳細について打ち合わせてしてから受話器を置いた。
電話の会話で状況を察したEさんの顔はニンマリしていた。もうビールも飲んでいてご機嫌だった。それもそのはず、Eさんにとって、ペレケには5回も挑戦して、ことごとく頂上に立てていない因縁の山なのだ。まさに「棚からぼたもちならぬ、ペレケ」なのだった。知床の1月、どんなに雪が少なくても、知床峠やペレケには雪があり大丈夫というわけだ。

4.出発
12月30日(水)午前5時30分。
今年も夜明け前、Eさん宅へ向かった。Eさんは夜中の1時から仕事をしてひと段落したところだという。茶の間で熱いお茶をいただいた。
Fリーダーのハイラックスサーフがやってきて、装備を積みこむ。ぼくたち先発隊は網走を出発した。
斜里の警察署に寄り、計画書を提出する。定時交信するJR8GKHさんことS水さんの住所、電話番号を確認された。今回は和やかに受け取ってくれた。
出発地点のウトロ、知床自然センターのゲートに着く。快晴無風。
団体装備を分担し、パッキングを念入りに行う。
スキーにシールをつけて出発だ。

5.真っ赤なソリ
8時35分、歩き始めた。久しぶりの重荷に膝が痛い。
ゲートは10月20日頃から来年のGWまで道路を閉鎖したもの。ここからは除雪されていない。スノーモービル対策か、ゲートの横も格子がびっしり設置されている。
「あーっ」と思った。驚嘆した。こんな発想もあったのかと尊敬した。Fリーダーが、なんと荷物を子ども用の真っ赤なソリに乗せて、極地探検隊のように引いていた。サブザックを背負って、「うーん、思ったより楽」と、あえぐぼくたちに言った。
目の前をずいずいと進むFリーダーのあとを続いた。トレースはツアースキーの人たちが5〜6名、先行していたため、しっかりしていた。ここからめざす峠下の大曲までは約9キロくらい。右に設置してある国道の始点からの距離を示す標識が27kmから18kmになるまで進む。
今日はほんとうに穏やかで、3月のようだ。日差しも暖かい。
景色は左前方にドーンと迫る羅臼岳、右は天頂山・ペレケ・鋭角な遠音別岳が連なる。冬の閉鎖された国道は広々している。白が眩しい。
20.5km標識地点くらいの右側に網走山岳会さん所有の愛山荘がある。外を改装したようだ。国立公園内のためか壁はグリーン色になっている。
森林限界を越える。
13時40分、大曲のやや上、知床峠手前のヘアピンカーブのところ、標高690m地点にBCを設置することにする。ハイマツが少し出ている。

6.設営
BC(ベースキャンプ)は、まず風の当たらないところを探す。雪を踏みまくる。雪の中の空気を出すためだ。そして時間をおくと雪面がしっかり固くなりテントを張ることができる。張り綱は近くの露出している枝などにしばる。
テント内で不必要なアイゼンやザイルのような装備は、隣にツェルトを張って入れた。
今回のテントは、Fリーダーのゴアテックス製のエスパース2〜3人用だ。
早く中に入りたい。というのは、背負ってきたビールが飲みたいのだ。ぼくもすっかり山岳会で、「山の酒のうまさ」を知った。
タワシでウェアなどについている雪を落として、プラスチックブーツを脱いでからテントに入る。
うーん、なまらあずましいべや。

7.ヘクトパスカル
ビールばかりも飲んでいられない。夕方、冬山では、まずすることが二つある。ひとつは雪を溶かして水を作ること。テントの横にコッフェルに入るくらいの雪の塊を用意しておき、随時ビニル袋から取り出して、コンロで水を作ってゆく。
ふたつめは、16時からNHK第二で放送される気象通報を聞いて天気図を引くこと。
天気図を引くのが、9月以来というぼくもいけなかった。いつもは「石垣島では南の風、風力3、晴れ、1013ミリバール、20℃」なんて始まる。
いつからなのか、ミリバールがヘクトパスカルという単位に変わってしまっていた。ぼくにしたら寝耳に水で、慌ててしまった。ただ単位が国際的に共通になっただけらしいが、ぼくのように慌てた人も全国の冬山で多かっただろう。
天気図では、これから気圧の谷が通過するようだった。

8.プリン
冬山でなくても、山での楽しみの一つは食事だ。しかし、冬山でしかできないもの、それは食後のデザート・プリンだ。今晩はちらし寿司を食べ、そしてプリンを食べた。
至って簡単。湯の中にプリンの素を入れて、攪拌し、外に出すだけ。外は天然冷蔵庫というわけだ。あっという間だ。
食後は、年末のラジオを聴きながら、アルコールをキュッと体に流しこむ。山の生活タイムは早いのだ。
18時、定時交信。Kさんが風邪で参加がわからないとのこと。

9.寝る
無線の交信も終わったら、もう寝るかあといった気分になる。
ストーブをカーッと焚く。テントの中の空気が上から暖かくなってくる。消してから、寝る体制をつくる。
Kくんは、冬山が初めてのため、ぼくたち2人の間に位置する。ウェアも着て、シュラフカバーに包まれたシュラフにもぐりこむ。
ぼくはいつもお腹にホッカイロを入れる。帽子もかぶる。彼女がくれた手袋もする。雪上に寝るとあちこち沈んで、しっくりしない。
目をつぶっても、風の咆哮しか聞こえない。Fリーダーの寝息が聞こえてきた。
明日のこと、むかしのこと、卒論の構成のこと、ネパール行きのこと、自分と彼女のこと、社会人になる希望、いろんなことが頭をよぎる。22時過ぎ、風が強くなってきた。
体の下から、包み込まれるような寒気が襲ってくる。横腹、尻が寒くなる。狭い中、寝返る。自分の息が温かい。テントが風にはためく。風は呼吸のように遠くの尾根からやってくる。そうして、冬山の夜は更けていった。

10.BAD MORNING
5時起床。今日は大晦日、12月31日。
意外と冷えていない。風は相変わらず強い。シュラフカバーがバリバリに凍っている。体のあちこちが痛い。
明るくなるまで様子をみることにする。
まずは朝食だ。雑炊を作る。Fリーダーが娘さんから取り上げてきたのか、幼児のみもの100%オレンジジュースをおいしくいただく。ラジオからは体操のさわやかなリズムが流れてくる。
7時過ぎに明るくなってきて、換気口のベンチレーターから外を覗く。あーダメだ…視界がない。
午前中、停滞することにする。つまらなくラジオを聴く。ストーブを微燃焼にしておく。
9時10分の気象通報で天気図を引く。
「おっ、今は冬型の等圧線の中だけど、高気圧が移動してくる。これ以上、悪くならない!」

11.ちょっと偵察へ
Fリーダーが、「ちょっと偵察に行ってくる」と、プラスティックブーツを履きだした。
「あ、いいよ。一人で行ってくるよ」と、テントの外へ出て行った。ぼくたちは行動時の甘いミルクティーをテルモスに作ったりする。
ごく稀にテントの外が明るくなったりする。
Fリーダーが帰ってきたようだ。物音がする。
「よーし、行くぞー」、Fリーダーの声。
早速、ぼくたちも出発の準備だ。
次に、「ダメだあーユキがついてきたわー」の声。風だけだったのに、雪がついてきたらしい。風雪になると視界が利かなくなるからだ。
今日は停滞、決定となる。

12.ぼくも、ちょっと
せっかく身支度を整えたので、ちょっとぼくも動きたい。リーダーの許可を得て、一人で尾根に登る。先程のリーダーのトレースがもう消えかかっている。北風が強く吹きつける。
新雪と氷化した部分が混じる。適当なダケカンバを見つけては、標識テープをつけてゆく。標高750mを超え、飛行場と呼ばれる広大な雪原の入口に着いた。視界が利かず、距離感もなくなる。ここで引き返す。

13.ブロック積みとスノーソー
BCに戻ると、2人がせっせと働いていた。スノーソーと呼ばれる雪切り用ののこぎりを使ってブロックを切り出し、テントの風上に壁を作っていた。早速、ぼくも加わり、雪を切る人、運ぶ人、積んでゆく人に分かれて作業する。作業は順調に進んで、背丈ほどのブロック壁を作りあげた。
明日、登ってくるであろう正月隊の分も作っておいた。
良い風除けになる。スノーソーは軽いし、これからの必須アイテムとなりそうだ。

14.山の上の大晦日
大晦日である。テントの中で、今年ヒットした歌謡曲がラジオから流れている。昼過ぎからテント内生活だ。
リーダーから過去の山行の話を聞いたり、ワインを飲んだりして過ごす。話の中で「ペレケからオンネ(遠音別岳)への正月縦走」が一番印象に残った。風雪で足もとのスキーが見えなかったという。予定を変更して、ウトロ側のフンベ川を下り、予備日をギリギリまで使ったという話。M田さんがリーダーだったらしい。
夕方、年越しそばを作った。山でも年越し気分だ。今日までは今年、明日からは来年。明日になったら、今日は去年。
天気だけはまだ良くならない。天気図では東の低気圧が動かなくなっていた。高気圧は動いているのに。
18時、定時交信してから、寝るとする。
明日は羅臼岳南西ルンゼをやる予定だったが、今日何もできなかったので、ペレケへのルート工作の予定だ。本命一本。
風、テントをはたく。去年もそうだったが、山で大晦日を過ごすと、ほんとうに無関係に、節目、年の瀬っぽくない日となってしまう。天候と残す日程がぼくたちのカレンダーをつくる。そばと雑煮だけでも日本の年越し、正月!

15.お正月だよ、ルート工作
お正月、元旦の今日は、1時間寝坊して6時の起床。
よく「正月は山に行ってきます」と、人に言うと、「あら、山の上からの初日の出とはいいですね」と言われる。
が、正月はあまり天気が芳しくない。本年の今日も例外ではない。まだ、風がビューと唸っている。昨日よりは少し収まっている。
あけましておめでとう、と一応の挨拶をしてから、朝食の雑煮をつくる。だしが利いて美味しい。もち、鶏肉、人参、大根、しいたけ。
今日は行けるところまで、特にペレケへの稜線の取り付きまではルートをつけたい。
防寒着、行動食、ツェルト、無線機、ルート旗などを背負って、8時前に出発する。すぐ裏の小さい尾根に登ると、ウトロ側は陰鬱な雲が望まれた。
風は相変わらずだった。雪もついたり、つかなかったり。視界はほどほどに利いた。
ぼく、Kくん、リーダーの順で昨日の標識を頼りに進んだ。

16.コンパス
視界は50mくらいだろうか。通称:飛行場は真っ白で天地の境も距離も分からなかった。地図とコンパスで忠実に進む。コンパスで方向を確認して、目印となる木などを見つけて、そこに向かって進んでいく。その繰り返し。その方向には天頂山より派生する尾根があり、わっせわっせと登ってゆく。Kくんが「こんなところをスキーで登れるんだ」と、シールのすごさを感心している。
ダケカンバ帯の斜面だ。ぼくの頭の中の地図では、尾根を乗っ越して右前方にまた尾根が見えるはずだと思っていた。そして、その尾根を巻くように進むのだ。
しかし、実際にぼくの前に風雪から姿を時折現す尾根の左下は、急斜面だった。
「ちょっと、ちがうぞぉ」と、リーダーが追いついてきた。
やや引き返して、ツェルトを張って様子を見ることにした。現在地も地図上でしっかり確認したい。9時40分から30分間、ミルクティーを飲んだりしながら停滞した。
コンパス通りに進んでも、斜面を登るときに左にずれていったのだと反省した。まだ、真っ白な風雪の砂漠だ。

17.烈風
天候は一向に回復しない。現在地はやや天頂山側に来ているようだった。
とにかくその尾根は左に巻くのではなく、もっと右に登るのだということになった。ペレケの稜線の取り付きまで行っておきたいのだ。ツェルトをしまい込んで出発。
その斜面を登ってゆくと、追い風がぐいぐい強くなってきた。と、思っているうちに、そこは風の修羅場と化していった。体が宙に飛びそうだ。まつげがみるみる凍りついていく。目を開けるのがつらい。後ろのKくんも確認できない。
そこの前方は風が空に抜けていって、下は崖のように感じられた。といっても真っ白で何も見えないので、とにかく止まって待とう。風が前へ前へと押す。ぼくは転ぶようにして体を伏せた。目出帽、フードをしていても頭の芯まで凍りついてゆきそうだ。体温がぐんぐん冷たくなっていくのがわかる。
Kくんが見えたので、なんとか風に逆らって戻った。リーダーも来た。立ち話もできない。ストックで「戻ろう」と合図をする。風に向かって進んで、斜面を降りた。やっと、さっきツェルトを張った地点に着いた。

18.安堵
また3人でツェルトを被った。被って一瞬で無風の部屋となる。ホッとする。それにしても凄かった。ほっぺたがジーンと温かさを取り戻してきた。目が疲れて、寒くて、涙が出た。あれが「シレトコノカゼ」なのだろう。行動食を口に入れ、12時に正月隊と交信する手筈なので、それまで停滞することにする。ぼくはじっと「あの風」の体験の余韻に包まれた。

19.今日は止め
無線交信では、正月隊が11時40分にBCに到着したとのこと、Kさんが来られなかったとのこと、ぼくたちは今からBCに戻ることなどを連絡しあった。
テープを頼りに、まだ不十分と思われる地点には、さらにテープを加えながらBCに向かう。
青いテントが1張り増えたBCが見えてくると、「オーイ」と声をあげたくなる。12時55分到着。ミツルさんが外にいてくれた。

20.さっそく新年会
ブロック壁の修復を行なってから、4〜5人用テントに6名は集合する。Eさん、Sさんもいる。Kさんはやっぱり来られなかったとのこと。
ビールで乾杯!だてまきなどのつまみ。
正月隊、2日夜の夕食材料を忘れてきたことが発覚。でも、何とかなるさと皆でうなづく。
よっぽどあずましいのか、Eさんが「カンロー」と言い始めた。天気図を引く。全くの冬型だけど、高気圧のがんばりでは移動してきて包まれるか?
今日の夕食は、チゲ鍋。キムチと鶏肉と野菜を入れた鍋だ。なかなかイケる。酒宴は続く。ビール、日本酒、ウイスキー。
外へ出ると、夜空は無数の瞬く星で一杯だった。
山の魅力の一つは星空だと思う。

21.快晴無風の夜に
夜更け、冷えてきた。寒さで目が覚める。Eさんからもらったこのシュラフを今までずっと4年間「厳冬期用」と信じて使ってきたが、昨晩、実は春秋用だったと知らされたせいもある。外の風はないようだ。
3時40分、遠くから人の声がした。近づいてきたその声の持ち主は、なんとKさんだった。
「がしょー!」と言い合っている。隣のテント(Eさん、Sさん、ミツルさん)は、3時過ぎから物音がしていたので起きていたのだろう。
それにしてもKさんはスゴイ。風邪気味なのに、札幌から車でノンストップでウトロまで、その到着時刻は23時40分だったという。そして、BCまで登ってきた、星明かりの下を。
これからぼくたちのアタックが始まる。
「今日は沼の写真を撮って、おしまい」
「テントキーパーも必要だなあ」と、さすがに弱気なKさんは、もしかのKさんのためのビールを飲み終わり、眠そうだ。
昨日の鍋汁で雑炊を作る。
今日は快晴無風なのだ。いけるぞぉ!

22.朝焼け
初夢の余韻も覚め、いよいよ出発だ。6時過ぎ、ヘッドランプをつけながら、全員で出発する。ミツルさんはスキーの金具が折れてしまったようだ。
黎明の晴れの下、空気が心地よい。裏の小尾根に登ると風が強い。トップのリーダーと標高820m地点まで行って、皆を待つ。後ろには羅臼岳が墨絵のように見える。天頂山も手が届きそうな近さで望まれる。
昨日とは風向きが逆になっている。
リーダーは「ここでやめよう」と告げる。さらに進んでも風は収まらないどころか、昨日のような目に遭ってしまうだろう。
リーダーの指示は絶対だ。
やや風下に避けて、7人で悔しさとあきらめと安堵の複雑な気持ちでミルクティーを回し飲む。
そろそろ日の出だ。羅臼岳がバラ色に明るくなってくる。みなで記念写真を撮る。

23.結構なお手前で?
BCに戻る。まだ7時20分。すぐに撤収することになったが、ミルクティーやウイスキーをチョロっと飲む。ここでミツルさんがある小さな箱を取り出した。
「お茶をたてる」という。野趣ですね。皆で、うわーっと歓声があがる。湯を沸かして、65℃くらいまで冷ます。鶯色の緑茶粉を入れて、シャカシャカーとミツルさんが掻き回す。Sさんの非常食である羊羹を食べつつ、お茶をいただく。2回回して、ごっくん。飲んだ後は、茶碗を鑑賞する。と言っても山やキャンプ用の白いプラスティックだが…
それにしても、お茶は結構甘くて、さわやかでおいしい。さすがミツルさん!

24.撤収、帰路
9時から撤収。3宿の恩のこの地ともおさらばだ。がっつり背負って、シールを外して出発。
昨日、札幌の山岳会(南西ルンゼへ向かったようだ)が登ったトレースが残っていて、今朝も冷えたのでまあまあ滑る。荷物で肩が痛い。
この横断道路の帰りでスキーが滑らない時にはむしゃくしゃする。
雲のかかってきた知床連山に見守られ、やさしい日差しのゲートに着く。ゲートには我が会の車4台の他に5台ある。
お疲れ様でした。

25.山から下りてー
Eさんは早速ウトロから自宅に無事下山したこと、風呂を沸かしておいてと電話している。Eさんにコーラを買ってもらう。下山後のコーラはうまい。
Eさん宅に皆が集まる。まだ13時過ぎだ。Sさんが生寿司をご馳走してくれる。
おやっさん、S口さん、S水さん、N田さんご夫妻、K先生がやってくる。札幌のM田さんも電話の声で加わる。さらにK柳さん、Yさん、S石さんもやってくる。久しぶりの賑わいだ。
思えば、4年前、初めての冬山・斜里岳北西尾根から下りて来たときもこんな賑わいだった。
皆がねぎらい、山に行った人は温かく迎えられ、そして行けなかった人も一緒に山の話をする。また、今度みんなで行こうやあ、といったことになる。ぼくは、そんな会の正月山行が大好きだ。
よくEさんは、「うちは酒飲みの会だあ」という。ぼくもそれでいいと思う。
ただ、あの頃にS口さんが中心になって、ヒマラヤの研究や、会の皆が目標に向かっていたような、そんな目標が持てるよう、ぼくは会において積極的にがんばりたい。

おわりにー
風邪から病み上がりで札幌から走り、そして夜中に一人でBCまでやってきた Kさんは、「正月山行は、一年の、自分へのけじめだ」と言っていました。Eさんにしても年末忙しい仕事を終えて山に行くのです。他の人たちにしても、家でゆっくり体を休めた方がいいのに…と思います。それなのに少ない休暇をフルに使って、つらくて疲れる山へあえて行くのです。
ぼくはまだ体力的についてゆけるから山を続けているけれど、もしこれで体力もなければ、山はつらくてイヤになってしまうかも知れません。
年の差がこんなに違う先輩たちと比べると、ぼくはまだまだ山に対する情熱が足りません。これからも技術的なことも含めて先輩たちから吸収していきたいと思います。

今回の報告が長文になったのは、少し理由がありました。
ひとつめは、ぼくが大学一年生からこの会に入って、もう卒業ということ。その間、「山」を教わってきました。たくさんの会員の方と知り合いました。
だから、感謝を込めて、それらをしっかりまとめておきたかったからです。
ふたつめは、会員があちこちに散らばったり、しばらく山から離れている方もいます。今回の山行に参加できなかった方にも山へ行った充実感を分かち合いたいと思ったからです。

卒論の合間にワープロを使い、疲れました。
それでは今年も会が良い山行を重ねられますようにー

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