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おならの国際郵便

おならを郵便で送ろうと思いついたときのことを書きたい。

留学先でどのようにすごしているかなどをハガキに書いて両親に送るつもりでいたのだが、年賀状以外の手紙をほとんど出したことがない筆不精の自分はやっぱり送れずにいた。いつも伝えたいことのイメージが膨らんでしまうのだ。それを思った通りに書き表そうとすると筆が重くなっていく。便りを出したい気持ちはありつつも、やることリストの下の方に沈んでいった。

ToDoする見込みのないToDoが少しずつ増えていく。

こういう類のものは数ヶ月寝かしておいて後から見返してみると、やらなくていいやと思えるものがほとんどだったりする。でも、このハガキの存在感は留学が終わるまではなくならなそうだ。

リンツの街をいつものように学校に向かって歩いていると、唐突におならを郵便で送るというイメージが浮かんできた。
「これは、、、ありかもしれない」と、このイメージの可能性を瞬時に感じる。手紙を書かなくても、手紙に勝る、何かを”伝える方法”を思いついた気になる。

足を止めてアイデアをメモに書きとめる。
メモ「おならをビンに詰めて、空輸して届ける」
やってみたいことがひとつ増えて、とても嬉しい。

閃きが訪れる瞬間というのは不思議だ。歩いていたときにいったい何を考えていたのだろうか、いや何も考えてなかったかもしれない。ただ閃きが訪れる前後に”郵便”と”おなら”の二つのイメージが体内のどこかでぶつかった瞬間があったのは確かだと思う。もしかしたら”郵便”が”おなら”の匂いを嗅いだのかもしれない。

案外、この二つは近くにいた可能性がある。というのも、研究室の雑用で郵便物を日本に送ったことがあったのと、節約のためにキャベツをよく食べていて食物繊維のおかげでおならが止まらなくなっていた期間が偶然かさなっていたのだ。材料は近くに揃っている。ではきっかけはなんだったんだろうか。歩いているときにおならをしたのか、もしくはすれ違いざまに誰かのおならが臭ったりしたのか。よく覚えていない。

話は少しそれるが、自分はおならをよくする方で、3人以上いる空間でなら誰がこいたか有耶無耶にできるので屁をこいてもいいと思っている節がある。なので、他の人にその匂いを嗅がれたことは比較的多いと思うが、その割に自分が誰かのおならの匂いを嗅いだということはほとんどない。よくわからないが、これも世の中に存在する数ある不公平のうちのひとつなのではないかと思う。

スイスアーミーマンという映画を映画館で観ていたときのこと。ハリーポッターのダニエルラドクリフ演じる登場人物がやたらに屁をこくという設定だった。映画館にオナラの破裂音が頻繁に響くなか、私は下腹部に大きな塊になったガスが溜まりつつあるのを感じていた。どんなに屁に寛容な自分でも、ここでこくわけにはいかないと栓を引き締めて強く我慢していた。
しかし、ここでまた閃きが訪れる。「今、俺がここでラドクリフがオナラをした瞬間と同時にオナラをすれば、これは4DXになるんじゃないか」と。我慢の限界が訪れたとき、ガスが腸の奥に引っ込んでしまうかしまわないかのときに、その時が訪れた。ラドクリフが特大のオナラをした。その機会を逃すまいと放出する。思い切った興奮と後悔の間を小刻みに感情が揺れる。無風の館内で私の四方の席に匂いが均等に充満する。隣に座っていた彼女からの鋭い視線を感じるが、スクリーンから目を離さないでいると脇腹に肘鉄を食らった。ユーモアとは受け取られなかったようだ。前の席に座っている人はパンフレットを仰いで顔の周りの空気を換気している。そのそよ風が私の顔をなでる。リターンが返ってきた。でもこれはテニスでいうところのリターンエースではない。自分のおならの匂いを嗅ぐのは全く平気だからだ。だが私の四方は違う。やはり不公平だ。

話を郵便に戻そう。

おならを郵送することについて、良いと思ったことが2つあった。軽いので送料がやすいということ。研究室の雑務で郵送したものの輸送費は60ユーロ前後だったろうか。これがだいぶ安くなるだろう。もう一つは、私が生きていることがよく伝わるということだ。私が食べたもの、私の身体、そして屁をこく行為があってこそ“おなら”はうまれる。つまり、おならは私が生きていることの証明と言えなくもない。これを嗅いでもらうことで、私が生きているということをリアルに感じてもらえるはずだ。その点で手紙やお土産より強力なメッセージになりえるのではないか。
 
こんな風に、いたずらじみたアイデアを歩きながら補強していた私はやっぱり不真面目なのだろう。

姉が郵便の中身を確認するところを想像する。
父親が嗅ぐところを想像する。
臭ければ臭いほど、留学先で頑張っているんだなと思ってもらえるだろうか。

実際にオーストリアから埼玉の実家に国際郵便を送ることはなかった。

2020年3月に新型コ口ナウィルスの影響で街がロックダウン、外出禁止令がでて大学も閉鎖。スーパーに食材を買いに行く以外は部屋にいる。人とはほとんど会わない。そんな生活を長く強いられて、私はノイローゼになっていた。活力とともに興味関心がしぼんでいき、好奇心が刺激されることが少なくなった。深くため息をすると喉の奥が気持ちよく感じる。屁は出るが、やる気は出ない。おならを詰める用にと考えていたピクルスの入った瓶(もしくは瓶に入ったピクルス)を買うこともしなかった。そんなこんなで実際に郵便を送ることはなかった。送るよりも先に自分が飛行機で日本に帰ってきた。

人類の半分以上の人々にはロックダウンになったらノイローゼになってしまう人たちであってほしいと思う。そうでないと言い訳ができない。留学という貴重な機会をお粗末にしてしまったのだ、おめおめと。本当は「ロックダウンでみんな大変そうにしてたけど、俺はむしろ充実してたよ」とか言ってみたかった。

日本に帰ってきてしばらく経つと落ち込んでいた調子が回復してきた。
何かやることないかとメモを見返していると、「おならをビンに詰めて、空輸して届ける」と書いてあるメモを見つける。
調子がいいときの私は、調子がいいときの私が書いたことをよく理解できるらしい。そして励まされる。同志の仲間からの便りを読んでいる気分だ。

おならを送ってみようという気分になる。国境をまたぐというスケール感はもうなくなってしまったけど、やってみよう。

私は送り先となる友達の名前をリストアップし始めた。



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