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青春とは気がついたら失っているようなもの

岡村靖幸ライブ「操」にて
岡村ちゃんのライブは青春を復活させるような感覚がある。寧ろ、自覚的に青春を復活させに行っているとも言える。それは岡村自身の、純情や青春といったテーマをソリッドにパッケージされたポップスが由来なのは勿論、岡村靖幸に出会って音楽の素晴らしさを知った少年時代の過去の煌めきも影響している。今日も圧倒的個性に打ちのめされるんだろうなとそわそわしながら会場へ向かっている。なんだかんだいって5年ぶりぐらいのでちょっと緊張。

––––コロナ禍の喪失を経てのライブということもあってか、気づいたら号泣。デジタル・ファンクを胸で聴きながら、踊れる!手を振れる!そんな嬉しさで一杯。押し寄せる岡村ちゃんの楽曲の青春性とフラジャイルな内省がその感情に拍車をかけた。『あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう』からのお馴染みのメドレーを今こうして聴けただけでも感涙なのだが、会場が一体となって手を振るあの瞬間の輝きは一生忘れないと思う。失われた全てのものに対して想いを馳せながら一体となる感じはごく稀な体験だった。

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さてこの頃は、シリーズが全て完結するということで、積年の野望、エヴァ一気見というエクストリームな体験をしている。こんなに没入できるフィクションあるのだろうかと日々感化されている。こういった、公と私、政治と文学、社会と心理の後者を描いたアニメーションを観るとなるほどなと思う。僕がなるほどなと思うのは、必ずしも僕がその説が正しいと思うからではない。ロボットアニメのファンタジーの挫折を描くことで新たなフロンティアを開き戦後民主主義以降のアニメーションを再設定したという意味でそういう描き方もあるんだなあと納得しているという言い方の方が正しい。少なくともそのような信念を抱いてアニメーションの創作が存在している状況は理解しているつもりだ。

個人的な話をすると、僕も政治と文学の問題に留意するならば文学に寄っていたいと思う。しかしこれは信念の問題ではなく、趣味の問題なのである。だからポリティカルな歌詞や反動的な歌詞は内面性から滲み出て直結するような問題しか取り扱わない。僕が音楽をスタートさせるときは大抵内面世界の描写からスタートするのだ。ただ、社会を否定することで夢に留まり、いや、留まることすらできず現実の不可能性に直面した旧劇場版の設定のような描き方は僕にはできない。なぜなら僕はこの世界に生きているから。虚構ではないのだ。その事実に音楽家としての政治の問題が関わり合ってくるのである。こうやって逆説的に、エヴァンゲリオンという虚構を通して自身の政治性が抉り出されている。ただ、まだ新劇場版は見れていないのだが...

「青春とは気がついたら失っているようなもの」という言葉は庵野監督自身の言葉である。この言葉を聞いたとき、庵野自身の青春の眼差し(その中にはセクシャルな眼差しと未分化な感情への想いがあると思う)はこの刹那性とフラジャイルさにあるのだなと私は納得した。冒頭で述べた岡村靖幸の青春性にも繋がってくるような気もする。ある程度歳をとって社会に出る前のもどかしいモラトリアムを感じている今だからこそこのフラジャイル性に引かれるのかもしれない。これについては、就職活動が本格化し、過去の自分を見つめ直すことをしているのが影響しているかもしれない。この頃は、葉加瀬太郎の情熱大陸がループで流れるココスでESを書き殴っている。ESを書きすぎたおかげか、文体がESの書き方に侵食されていると感じる。やはり文章は書く練習を怠るといささか距離ができてしまう。そんなこんなでエッセイがこの頃描けなくなっていたが、エヴァンゲリオンの話もしたいということもあって久々に筆を取ってみた。拙い文章ではあるがご容赦いただきたい。


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okkaaaの感じたことやパースペクティブを、風景、写真、詩とともに散文調で綴るエッセイです。音楽では伝えきれない自分の視点や内的自省を届けたいと思い執筆しています。月5回~更新。

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