壁打ちまとめ4月号

写真活動における言語化について
良い部分はあれど(何事もそうだろうが)絶対的ではないと思っている
まず第一に「言語化したつもりが自分が目指してない方向への言語化がされてしまい向き合ってる事象に対し正しくない理解を正しいと誤認してしまうという落とし穴がある」というのはたまに言われる一般論的な部分があると思うのだけど、もう一つ自分にとって重要なこととして、写真を撮る時根本的に一番大事にしてるのは「これいいじゃん」とか「撮りたい」とかいう言語の前の「撮って、残したい」という感覚であり、あまりに言語化を突き詰めるとそういう情動みたいなものが無くなってしまうんじゃないかと懸念を抱いている
言語化というのは事象に対しての「区切り」だと思うのだけど、たとえば自分が写真を撮りたいと思う衝動を仮に全部言語化できて「自分はA・B・Cという状況において写真を撮るのだ」と認識できたとして、つまりそれは「こういう風に自分は好きなものがあるのだから、A・B・C以外のことものは撮らない」という発想になったり、衝動的に上記のどれでもないDというものを撮ってしまう、という偶発性が発生しなくなってしまうのではないか?

つまり自分の中で曖昧にしているものを厳密に定義・区切るあまり偶発性による、大袈裟に言えば「イノベーション」みたいなものの可能性が失われてしまうんじゃないか、そんなことを思っていたりする
しかしながら言語化しようとすること自体に反対はしない
なぜなら何か目指すものがあったとして、やはり言語化というのは必須だと思うからだ
たとえば「誰それの写真が好きだから、こういう写真が撮りたい」と思ったとする
しかし「好き」と言ってるだけで特徴をかいつまんで言語化しない限り、よほどの天才でなければ「こういう写真が撮りたい」という願いは叶わないだろう
何か目指すものがあるなら、必要な要素を抽出し実現に必要なモノ・スキル・知識を見出し、習得するという流れはおそらくどのようなことを目指すにしても必須だと思う
まぁ、何事も適量ってことですね 最近界隈が言語化!!!言語化!!!!!と一色になってるような雰囲気があり逆張りしたくなっちゃったけど、結局はこの一行に帰結するんじゃないでしょうか、何事も…


写真作品とは何か

写真「作品」とはなんぞやと最近よく考える
なんか自分の中で「作品」と呼べるものは高尚で高コンテクストで高品質でなければならないという「〜であるべき論」みたいなのがあり、「作品」が撮れたと思ったことがほとんどない気がする
単に「作品」「写真作品」というのがなんなのかが自分の中でまとまってないからなのか、気軽に「これ作品です!!!!」て言えないというか(別に他の方が気軽に作品と言ってるわけじゃないだろうが) 、「自分がそう思い、他人もそう思うものが作品」くらいの認識でとりあえずはいるけど、「他人がそう思っているからこれはこう」というのは他者依存で危うい気がする
そもそも他人がそう思ってると、どう証明するんだという話なので
自分勝手というか相手への値踏み的な認識にはなるのだけど、自分が大した品質じゃない感じてしまう写真が「作品撮りました!!!!」と鼻息荒く提示されてるの見るとどうしても違和感というか「そんな品質じゃねぇだろ…」と冷笑気味になってしまう自分がいる
これはまぁ内心の話でありそれを出している本人に表明しなければいいという話だろうけど、翻って自分は「こんなん作品じゃねぇ」と言われるのを恐れて自分の写真を「作品」と呼べないってとこはあるのかも
作品という自認・自分に対し他者がどう思うかのギャップに恐怖してるというか…


カメラ趣味という呼び方について
自分の中での話だけど、少し前まで「自分は写真が好きなのであってカメラを愛でることは趣味じゃないからカメラ趣味ではない!!!」という自認があった
とはいえ他人にはそんなんわからんから人から「カメラ趣味をやっている」と見られるのは全然良いのだけど、けど自分の中では「他人にどう見られても構わないけど、俺は"写真趣味"をやっているんだ!!!!」みたいな感じでまるで信念の槍がごとく自負しているところがあった
けどまぁよく考えたらいくら「写真趣味」つったって写真撮影というのはカメラが無ければなんにも始まらない・なんにもできない、もう無力も無力なわけで、そう考えたら「カメラ趣味」て言い方はこの上なくピッタリじゃないかと、これ以上の呼び方無いぞと、最近思い直してカメラ趣味って言い方も悪くないなと思うようになった

発展して、カメラ趣味の方々への呼称の一つに「カメコ」って呼び方あるけど、これ申し訳ないけどポトレ界隈で被写体の女の子に激烈にセクハラ無礼千万働きまくってる人をも含めたカテゴライズだと勝手に思ってしまっていて、なんかそういう変態的カメラ趣味の方々と一緒にされたくないなぁなどと思っていたんだけども
しかしながらそういう人らも自分も、結局カメラが無きゃなんもできないんだからそういうところについては本質的には同じだよなぁと、最近ようやく開き直れたと思う

ツイッター(現X)(言い慣れない)で「カメラ趣味と写真趣味は切り分けるべき!!!一緒にされたらモヤモヤする!!!!的なツイート(現post)(言い慣れない)流れてきたけど、まぁわからんでもないが結局写真を撮るには絶対何がなんでもカメラは必要なわけでそういう意味ではカメラ趣味という概念を頑なに切り分ける必要も無いと最近思う
どんなに芸術として高コンテクストな存在の写真であろうと、そこに絶対カメラは存在するし、カメラを否定しようとする意味はない
まぁ確かに何で撮ったかとか興味ないけど、写真なんて曖昧さの極みみたいなことに対しいちいち厳密さ求めてもしょうがない
あいまいでいいよ(羊文学)


焦点距離の話
他の人がこのような事起きるのかわからないけど、単焦点レンズなりで特定の焦点距離をずっと使ってるとその焦点距離が体に定着して「あれ撮りたい!」と思って思いつく画面とレンズ焦点距離がほぼ完全一致するようになり、思考プロセスが省略されて超スピードで写真が撮れるようになり、ほとんど「撮りたい」と思った瞬間にシャッター切れば思いついた画面と実際の写真がほぼ一致する状態になってくる
実際には物理的制約で厳密に「撮りたいと思った瞬間にシャッター切れば完全一致」とはいかないけど、元はかなり沢山シャッター切りまくるタイプだったからそういう思考プロセス省略のための自分の中での「焦点距離へのチューニング」があるような気がしている
結果として「その焦点距離に合ったものしか撮らなくなる」てことだと思うのだけど、この「思考プロセス」とはたとえば50mmを使ってたとして「撮りたい」と思って思いついた画面が35mmで撮った方がいい画面だったり70mmで撮った方がいい画面だったりしてそのギャップを足で埋めるにはどうすればいいかみたいなことを考える過程な気がする
たとえば35mmで撮った方がいい画面を思いついたとして、ほんとはその数秒前に50mmで撮ると良い状況だったのにそこに気付き切れずそこに至ってようやく気づいた、というか


写真集を読んでいる際の「わからない」という感覚
写真集を見る時、何もわからずこれはなんだ??とわからないという気持ちを抱くという感覚も最近は大事にするべきだよなぁと感じる
その写真集のあとがきやら外部インタビューやらで作者がその写真集での意図したことや構成の輪郭みたいなものは見えるかもだけど、写真集って文章みたく答え決まってるわけじゃないから鑑賞側が写真見た時の感覚に従いこうではないか?と解釈するのも自身の感性において重要なことではないか、と
答えがないからこそ己の感覚に従い、何か提示された答えを目指すのではなく自由に解釈する楽しみと、難しさがあるんじゃないか、と
ソールライターの写真と文章はもっと初心者だった頃から見ているので折を見て見返すと印象が毎度けっこう違って楽しいのと、けっこう自分の中で原点みたいなとこあるから初心に帰れる
ソールライター育ちみたいな感じでソールライターの標準から中望遠めな写真を心のどこかで下敷きにした感じで写真を撮ってたとこあったから、去年28mm固定のLeica Q2買った時は随分苦労したのも懐かしい
「写真を撮ることは、発見すること」、金言だと思う


「最近見ない」方への寂寥感について
なんとなくXでフォローしてる人辿っていって最近見ないあの人は今もpostしてるのかなぁとぽつぽつ見てみたけど、気づいたら一年くらいpostしてない人がちょくちょくいた
単にSNSやめただけなのか写真自体やめちゃったってことかはわからんけど、この「趣味をただ継続するだけ」って実は難しいんだなと思った
カメラ買ったのをきっかけとして自分と同時期くらいにX(当時ツイッター)作ってフォローした人とかちょくちょくいたけど、インターネット上から消息不明になってしまった人がちらほら…
写真趣味始める前は子供の頃からやってた音ゲー趣味を20年以上ほぼ同じ熱量で継続的にやっていたから趣味を継続するなんてどうってことないくらいの感覚だったけど、大人になった今では趣味を継続できない理由なんていくらでもあるよなぁというのはなんとなくわかる、物理的事情、経済的事情、家庭的事情等etc…
願わくば、自分と同じタイミングで写真を始め、今はやめてしまったであろう人たちが今も人生を楽しく過ごしていることを祈るばかり
ぼくはとりあえずはまだ写真を続けていて、そこそこ人生楽しいです
それこそこういう寂寥感を写真に残せればいいよねぇ
そして「そこそこ人生楽しい」、実はこれが一番人生で自覚できる幸福感の最大値なのかもしれない
特段、リアルタイムにこれ以上の幸福感みたいなの感じたことはないので 毎日毎日たまにイラつくこともあるけどやりたいことやってたまに美味いもん食ったりたまに友達とバカ騒ぎしたり、てのはきっと自分が思っているよりも尊い


撮らないことによる取り返しのつかない感
なんとなく地元の様子を地図とかで見てたんだけど、再開発やらでめちゃくちゃ変わった今の町並みの光景が当たり前になっていて自分が青春時代を過ごした頃の町並みをほぼ思い出せないことに気付いて、当時写真なんか撮ってなかったからこれは取り返しのつかないことをしちゃったんだなと思った 今の当たり前が数年後も当たり前とは限らないよなぁと

そんなこんなで1ヶ月前に近所で撮った写真見返したところ、正直撮ってる最中はすごい虚無感に襲われてデータ取り込んだ直後も「なんだこのしょぼい写真は…」と粗選びだけして見る気湧かなかったのだけど、今見返したらそこそこ良いなと思える出来だった
撮った写真の良さに気づくのになんか大分時間かかったなという感じなのだけど、住宅街で一目見ただけインパクトある写真ってなかなか難しいから良さに気づくのに時間かかるってことなんだろうか、すごくセレクトが難しいなぁと感じる
しかし住宅街の写真は都市風景に無い、(たとえ人が写ってなくても)人の営みの暖かさを残せて最近大好きだからこういったセレクトの難しさと向き合いつつもまた撮りたいなぁという気持ちが湧いてきている
あとセレクトの難しさだけじゃなくあぁいった場で撮るのは都心で撮る時より更に立ち回りに気をつけなきゃだよね、タダでさえ不審者と紙一重なスナップ撮影なので。。

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