壁打ちまとめ5月・6月号

忘れてた…
あんま2ヶ月間でそんな壁打ちしてなかったんでもう2ヶ月分まとめちゃいます


写真集読んだからといって自分の写真が良くなるとは限らない、けど…な話

写真集読んだからといって自分の写真が良くなるとは限らないが、(写真集に限らず)何も能動的なインプットしない人はよっぽど天才じゃない限り写真は「上手く」ならないと思う
この場合の「上手い」とは自分の撮りたいと思った写真をいかに思い通りに撮るかというコントロールのことを指すのだけど、それだけでなくどのような写真を撮るかという発想、すなわちインスピレーションが湧きにくくなると思う
こういった写真に関するインプットというのは本質的には見た写真に限らずそうしたインプットした情報、更に言えば「一度それを見たという経験」を元に自分をほんの少しでもどう変化させるかという過程、これが一番重要ではないかと考える
そして取り入れた情報を下敷きに自身をどう変化させていくか、考えるきっかけとして写真集というのは効率良いからやっぱり読みまくった方がいいとは思うが、しかしなんも考えず読みまくってれば上手くなるだろうという考えは100冊くらい読んだ後はもう捨てた方がいいのかなとは思う
あと何のジャンルの写真集読むかも大事だよね 例えばスナップしかしてないのに山岳系の写真集ずっと眺めてても全くの無駄ってことはないと思うけど得られるものに限界あると思う 普段自分が接しているジャンルと差異がありすぎるため


後で見返したら良い写真になってる現象について

何度も経験してはいるんだけど数ヶ月前に撮った、撮った時は大したことねぇじゃんと思ってた写真が今見たらなかなか良いじゃんという評価になるというのをまた経験しているので、少なくとも自分は撮った写真について後からじゃないと正常な評価ができないっぽい
即座に「これはめっちゃいい」と感じる写真ももちろんあるけど、他人目線になる必要があるというか
みんな自分で撮った写真に対して大なり小なり完全な他人目線で見れるようになるのにある程度時間を要すると思うのだけどどうなんだろうな


写真撮る時の気持ちについて
一日中写真を撮り続けるような日も、空いた20・30分で少しだけ写真を撮るような日にしても、少しでも多く良い写真を残せるようにという気持ちも大事にしつつ、何か一枚でもお気に入りの写真が撮れたらその時点で「今日写真を撮って良かった〜」と思うようにしている
「今日写真撮ったけど全然良い写真撮れなくてマジで無駄だった」てなったら悲しいので
ほんとに全然満足する写真撮れてなかったとて、でも一枚でも良い写真撮れてたならそれはきっと人生のなんらかの財産になるだろうと考えた方が、それは自分に厳しい人にとったら甘ったれた考えかもしれないが前向きになれるんじゃないかと思う


カメラと被写体たる現実について
カメラは現実を写すというし自分でも概ねそうだと思うけど、無理にそうしようとする必要は無いと最近思う
積極的に現実を歪めて写そう、というわけじゃなく、目で見てる現実の景色とカメラが捉えるデータは厳密には違うものだからそんな無理して自分が認識した、あるいは考える感じの景色を写真にしようとする必要もないんじゃないかと


写真の撮影枚数について
大前提として「いっぱい撮ればいいってわけではない」のだけど、昨日フォロワーと写真撮り行って撮影枚数の話になり、やっぱ昔と比べて自分の一回の行動における撮影枚数大分減ったなと感じた
週3、4くらいでいつもやってる定点スナップ的なものをやっていて大体一度に130〜200枚ほど撮ってたのだけど、今年入ったくらいから70〜130枚くらいに減っているし、旅先でも大体テンション上がって1000枚以上絶対撮るのが常態化してたのが今は平均で1日700枚とか、多くてようやく1000枚くらいに落ち着くようになった
これは撮ってる時の自分の意識の変化も大分感じていて、前までは「撮るほどのもんなのかどうか、迷ったらもうとりあえず撮れ!!!」という感じだったのが、今はファインダー(背面液晶)で見ながらそこでシャッター押したらどのような絵になるか完全に予測できるようになり、「これはいらんな」と撮る前からのセレクトの精度が大分引き上がったのだなと
とはいえやはり「迷ったらとりあえず撮る」は変わってないけど、そもそも昔なら撮るか迷ってたところを迷わず捨てられるようになった、この精度が引き上がったんだろうなぁと勝手に成長を感じた
ストリートフォトとは機材以外の自分のスキルということであれば撮るものを発見するトレジャーハントスキルと発見したものがほんとに写真になるかの鑑定スキルという二つに全て集約されると思う あと動き回れる体力


写真集を見ることについて
選り好みせず色々写真集見てきたけど「写真集」と「写真作品集」は決定的に違うから自分が今どんな気分で何が見たいかちゃんと認識した上で適切なものを見た方がいいかもなぁという考えになりつつある
今自分は集合体としての写真集を読んで写真群から浮かび上がるものを感じたいのか、それとも一枚一枚が教科書的に優れた写真を自身のインスピレーションのために見たいのか この辺はっきり自覚した方が良いのかもしれない


写真について
その辺の路上でカメラ一本でパチパチやる撮影もスタジオやロケ先でストロボとかディフューザーやら使って徹底的に光を作り込む撮影も等しく写真だけど、後者のような手間が面倒で絶対に無理だから路上でパチパチし続けてるっていうのが大きい気がする
必然徹底的に作り込んだ一枚の写真に比べて単体での写真の質は勝てない可能性は高くなるけど、数十枚の組写真で浮かび上がらせる何かみたいなことであればできると思うので今後やってみたい試みではある

写真と聖地巡礼
好きなアニメの良い二次創作絵が流れてくると、俺は絵とか全く描けないけど人よりちょっとだけ良い写真が撮れるからそれを活かしてモデルとなる場所の写真とか撮りて〜〜ってなる
というと絵による創作と並び立ちたいみたいな文脈になっちゃうけど全くそんなことできるとは思ってなくて、アニメのモデルとなった場所に当たり前に流れている時間を自分の視点で切り取ってそこからアニメの雰囲気を勝手に見出してニヤニヤしたいと、いわばアニメ聖地巡礼写真みたいなの撮ってる時はそんなことを考えながら撮ってると思う
聖地巡礼写真に限らず、少なくとも写真を撮っていて創作をしていると思ったことは一度も無くて、泰然と存在する世界に対してどのような角度から二次元平面に落とし込むかという芸事をやっているという感覚というか
物事や世界を別の視点で見るための過程および、それが形に残ると幸せだよねということのためにやっているような、ある種書道的なところがあるかもしれない
昔からアニメ聖地巡礼撮影けっこうやってたから結局今やってることってその延長線上だと思う


作例写真について
たまに見る作例写真にレタッチした作例はアリか無しか論みたいなやつ、個人的にはレタッチした作例もアリでしょうと思う
というのもレタッチ耐性どんくらいあるかだって重要だと思うので
ただ何の現像ソフト使ってるかってのは明記して欲しいかも、そしてできれば現像前のソフト読み込み時のまま書き出したデータも比較対象として出てると良いかも
ただ新規製品の場合LightroomとかC1だとそもそもソフト側がまだ対応してないという可能性があり難しいのかもしれない
まぁこんなこと言いつつ公式サイトの作例ほとんど参考にしないんだけど笑 既存製品ならSNSとかphotohitoあたりが一番手っ取り早い


高い機材買うことについて
頑張って背伸びして高い機材買って一番良かったのはその下位となる安い機材使ったとして「あの高い機材でこれやってたらどうなってたかなぁ…」っみたいな思考にならなくなったことかもしれない
上位互換となる機材を使った場合どのような形になるかがわかっていれば色んな理由で下位互換の機材を使うことになったとしてもそれほど後悔ないというか


使った機材思い起こして思ったこと
今まで買ったカメラ羅列するとキスデジ、7c、GRIIIx、R6、Leica C-LUX、rx100m6、Q2という感じで半分以上はもう売っちゃったけど、今にしてみるとどれも何かしら良いところがあったなと思う、という実際たぶん良いとこ語れる 真にダメなカメラなどそうそう存在しないんだなと今にしてみると思う


写真撮影行為について
この世の中にあまねく存在する写真になる瞬間を少しでも取りこぼしたくないという思いから合理化の極致みたいな最新式カメラで無心で写真撮りまくるのも、たとえ撮影枚数が少なくなるような不便さでもいいから露光もフォーカスもなるべく自分の手で調整して一枚一枚重みを持って写真を撮るのもきっとどちらもかけがえなく楽しい 自分は今の所前者の撮り方してるけどそのうち後者の撮り方にシフトしていく気がする


昔の自分の写真を見て思ったこと
なんとなしに自分の2年前の写真見返したら凄く良い写真ばかりで驚いた
心のどこかで『自分は少しずつ前へ歩くがごとく、日々写真のクオリティを少しずつでも上げていて年単位で前の自分の写真と比べたら今現在の自分の方が良い写真を撮ってるに決まっている』と思ってたけどそれは間違いだった
なんだか不遜な感じの言い方になるかもだが、正しくは『2年前の自分も良い写真を撮っているし、今の自分も良い写真を撮っている』かな、と
こうして2年前の自身と比較して思ったのは、自分のストリートスナップ写真を撮る技術みたいなものは概ね2年前時点で既に『手癖』という形でパターンが出来上がっていて今もそれはほとんど変わっていない、変わったところがあるとしたら写真そのものとどう付き合って行きたいか、そして群として写真をどう編み上げたいかという考え方だと思った
最近は、世界中あらゆる場所や時間が記録されている現代において記録の特別性を生み出そうとするのならそれは「何を撮ったか」ではなく「撮ったものをどうまとめたか」になるんじゃないかという気がしてる
なんだか思ったより自信満々な言い方になったけど、他の誰かが自分の写真を好きになってくれるかなんてわからんのに自分が好きにならんでどーすんのよ、とか思う




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