必要そうで必要でない、少し必要な他人の言葉

人生の圧倒的岐路夏季休暇真っ只中という2021夏休み。
大学生でも社会人でもないこの1年間。誰かの言葉がその通りのようで、その言葉自分にしっくりきてるのかわからない、、なう半年ぶりの実家帰省のあずさにて。過去の自分と対面したいと思った。何かいうたびにあたしは誰も傷つけまいと抽象を語っていく、、? そして歌にはその全てを乗せて正直でいられるねぇ。。こうゆう思考が行き過ぎると自己主義になっちゃうから塩梅、中庸そうなの。

自分の意見に所在がないこと、あっても言語化できないことに気づいた。単に練習が足りていないと思うことにしようか。落ち込んでもしょうがないし。

完全に飽和状態かな、、ありがたいことに将来や悩みを聞いてもらいお話させていただく機会に恵まれて、自分はどうしたいのか?テーマは?展望は?を問い詰めるたび、自分の中に人を説得させる言葉がひどく足りないように思えて、気持ちだけ先走ってて、、今まで取り組んできたことには純な意欲のみでは足らず(というか向いておらず)明確なテーマがなくちゃいけなかったのか?自分に向いてるやり方(なおかつ自分も前向きに取り組めたらサイコー)を絶対に見つけたくて、音楽活動をどの程度の規模感に成長させたいのか、アーティストとしてどういう立ち位置になりたいのか作戦を立てる必要があるってこと。うーーーーーーーーん?それは間違っててもいい。私はいつも2足の草鞋的なことをして生活してきたかもしれない。勉強と委員会、生徒会、部活、大学と音楽活動、そして金銭を貰う仕事というフィールドを選ぼうとしている今!なんとやりがいという自己承認欲求をも求めている!そんなの烏滸がましいか!?私が社会・他人にもたらせる好転的なものって何だろう〜〜がぐるぐる。人間関係。

だから、音楽も神職としての生き方もどちらも疎かにしたくない。最後は論理的に考えたって、家族の言い分なんて、振り切ってしまうこともできるんだ。そうなんだ、今までそうゆう考え方の境地を知らなくて、柔軟でなかった。自分の人生なんだから、ワクチン打たないという選択もどこで働くかも、自分で決められる最終的には、賛否両論を抱えようとも。時間が経過することが持つ意味は意外と大きい。

そう、今までのこと否定されたりうーーんって言われるのが嫌なんだな?奥底の私はきっと。自分のことさえ知り得ないよ、とりあえずままならないけどこの感情は吐露しときたくて、書き残しとく〜

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