「また明日」までの準備期間

また明日。いやまた来週でもいい。この言葉がどれだけ恵まれていて、どれだけかけがえのないものだったのか。今ならわかる気がする。卒業や失恋の歌やポエムではよくある表現だが、まさか「日常」自体がなくなってこの意味が心に染みるとは思いもしなかった。

抑揚のない日常が続くと、それがずっと続くように錯覚してしまう。それは毎日授業との繰り返しだった学生時代も、どこにも出かけられず、新しいことのない自粛期間においても同じだと言える。だからこそ、この状況もいつか終わると確信している。

そして、この状況が終わっても、前と同じ形の社会にはならない。新しいカタチの社会になるのは目に見えている。卒業後の春休みのような、今はそんな変化に対応する準備期間だと捉えるのもまた良いのかもしれない。

人は所詮一人では生きていけない。だからこそ、現実で人に会うという営みはこの上なく大事なことで、消耗するときもあれど、エネルギーをもらうことの方が多いはずだ。次に「また明日」を言えるとき、その時にはどんな自分になっているのだろう。

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