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1 マグ(くま) はすぐかわいいと言いたがる(試し読み)

どうして彼女は平気で「かわいい」と言えるのだろうか?

 
 結婚してしばらく経ってから、僕は熊のぬいぐるみをもらった。
 僕の妻は三歳のころにもらったぬいぐるみを三十路近い今でも大事にしているほどのぬいぐるみ愛好者だ。いざ持つならば大切にしたいという意志が強く、そうそう簡単にはお迎え、つまり購入しない。しかしあるとき見かけた一体のぬいぐるみが、その決意を打ち破るほどのかわいさだったらしい。茶色い短毛の、手足の短い、小さめのすいかほどの大きさの熊のぬいぐるみである。しかし妻は既に家にいるぬいぐるみ達への義理立てから、購入をためらっていた。そんな彼女が考えた奇妙な理屈が、僕の友達としてぬいぐるみをプレゼントするというものだった。

 男性でもかつてお気に入りのぬいぐるみを持っていた、今なお持っているという人はいるだろうが、僕にはそのような経験はなかった。そんな三十路過ぎの男をつかまえてぬいぐるみを大事にしろというのだ。正直、抵抗があった。しかしそこは、あくまで妻がそのぬいぐるみを買うための方便だと思うことで了承した。名前をつけろと言われたので、僕は思いつきでマグと名付けることにした。クマを逆から読んでもじっただけである。

 マグが家に来てからも、僕はしばらく距離を置いていた。もっぱらかわいがるのは妻だったし、それで良いと思っていた。しかし妻は、なにかとマグと僕を触れあわせようとした。彼女は彼女でマグを購入するために用意した理屈、僕の友達としてのマグという体裁を守ろうとしていた。くわえて、僕がぬいぐるみ好きになることを期待してもいたようだ。

 そんなこんなでしばらく熊のぬいぐるみと暮らすうちに、僕はマグを使って奇妙な行動を取るようになった。たとえば、妻がテレビを見ていて犬が出てくるとする。犬好きの妻はいつものように「かわいい」という言葉を口にする。そんなとき、僕はマグを持ち、腹話術でマグに「かわいい!?」と言わせるのだ。自分をかわいいと思っているマグは、他のものがかわいいと言われているのをみると、つい焦って反応してしまうという設定だ。しかし僕はそれが気に入ってしまい、ことあるごとにマグに「かわいい」を言わせるようになったのだ。

 そもそも僕は、それまで「かわいい」という言葉を口にすることなく生きてきた。たとえば子猫を見たときに生じる、胸の泡立ちのような心地よい感情を、僕は「かわいい」という言葉で表現しなかった。一方で、妻はよく「かわいい」と言う。犬やぬいぐるみ、昔流行った女児向けの玩具、ブランドの子供服、その他目に入ったものについて頻繁に「かわいい」と言う。その適用範囲は非常に広く、ちょっとでも好感を持ったもの全てに「かわいい」を使っているのではないかと思えるほどだ。付き合い始めの頃、そのことは軽いカルチャーショックであった。僕は彼女が「かわいい」と言うたびに、どこがどのように可愛いのかをしつこく尋ねた。付き合っている相手の好む物、その好む理由を知ろうと考えたからだ。でも実際のところ、僕が聞きたかったのは「かわいいとは何か」ではなく、「彼女が素直にかわいいと言うことができるのはなぜか」だったのだと思う。自分が「かわいい」という言葉を自分に半ば禁止していることを自覚していなかったから、質問の方向がずれていたのだ。最近になって、僕には「かわいい」と口にすること自体が難しいのだと気づいた。妻がかわいい物を見つけて「かわいいね」と相づちを求めてくるときすら、「ううん、うん」と言い淀んでしまう。僕もそれをかわいいと思っていて、素直に「そうだね、かわいいね」と返事がしたいのに、できない。他の形容詞なら簡単に同意できるのに、「かわいい」だけは薄い壁のようなものを突き破らないと、口にすることができないのだ。

 そこまでして言えなかった「かわいい」という言葉が、マグを通せばすらすらと言える。そのことに気づいてしまった僕の口からは、堰を切ったように「かわいい」という言葉があふれた。

 なぜ僕はマグを通してかわいいと言えたのだろうか? 
 よくよく考えると、僕にとって「かわいい」とは、それ故に人を惹きつける欠点をもっている、ということである。さらに言えば、その欠点とは、僕が自分自身で否定してきた自分自身の欠点だ。子供の頃から僕は理想的な自分のイメージを抱いてきた。たとえばそれは強い精神力を持った男性だ。しかし現実の自分は、臆病で打たれ弱く、泣いてしまうこともしばしばだった。

 中学生の頃、放課後の人のまばらな教室で、女子に口喧嘩で負けてさめざめ泣いてしまったこともある。たまたま近くにいた普段は仲の良くない男子が見かねて胸を貸して慰めてくれたのだが、優しさがありがたい反面輪をかけて恥ずかしくなってしまい、ただただ泣くしかなかったのを思い出す。

 泣きたくなってしまうことや、泣いて感情を表に出すことは、自分にとって欠点だった。僕は自分に欠点があるならそれを排除しなければならないと常々思ってきた。その思いは、いろいろな局面で頑張るモチベーションにもなってきた。僕は人前で泣くたびに、二度と人前では泣くまいと思い、感情を表に出さないようにしたし、実際に少しずつそれは成功していった。二十歳を過ぎてから十年ほどは泣かなかった期間がある。そのあいだの僕は、感情を表に出さない不愛想さを、理性的であることによる冷静さ故だと考え、上手くやっていると思っていた。僕は弱い部分を捨て、強くなったと思い込むことができた。しかし一方で、僕が捨てたと思っているそれを、他の何かが持っていると、なつかしさとともにそれを取り戻したい気持ちが湧きおこり、惹きつけられてしまうのだった。つまり僕は排除すべきと考えていただけで、心から排除したいとは思っていなかったし、出来てもいなかったのだ。つい欠点だと思ってしまうような自分の感情や性質も、やはり僕の一部に他ならない。自分の一部を否定することには、常に小さな苦痛を伴っていた。だからそれを排除できたと確信できると、今度は取り戻したいという気持ちがふつふつと涌き出したのだ。このなつかしさと取り戻したい気持ちからなる愛着こそ、僕にとっての「かわいい」
という感情の核である。

 しかし「かわいい」と言ってなにかを評価することは、僕にとっては、自分の欠点を肯定的に評価することでもある。僕は欠点をあくまで否定し、排除し、取り除きたかった。だからたとえ何かに欠点を見出し、愛着を覚えても、それを「かわいい」と言わないように無意識に注意を払っていたようだ。僕は、実際には「かわいい」存在だった。しかしそれを恥じていた。それゆえに自分のかわいさを否定し、また欠点を肯定する「かわいい」という言葉の存在すら許さなかったのだ。

 しかし、マグは僕ではなかった。小さな男の子といった風体のマグは、手足が短くて頼りなく、悲しいことがあればすぐに泣きそうに見える、かわいい存在である。その評価が投影されているのか、僕のなかでできあがったマグの設定によれば、マグは自分がかわいいことを知っていることになっていた。この「かわいい」にはもちろん僕にとっての「かわいい」がやはり投影されている。つまり、マグは自分の欠点を「かわいい」ものとして受け入れていることになっている。マグは自分の欠点を排除しようとしていないのだ。だから当
然、僕がしたように「かわいい」と言って欠点を肯定することを否定するなどという面倒くさいこともする必要がない。マグは自分がかわいいことを恥じない。それゆえにまた、「かわいい」と言うことも恥じない。
ついでに言うと、自分を「かわいい」と言って欲しくて焦ってしまうわがままさなども、おそらくは僕にとっての「かわいい」ポイントなのである。

 まさか、三十路を過ぎてぬいぐるみと触れ合うようになり、想像的な関係を築くことになるとは思わなかった。しかしもっと驚いたのは、僕にとって「かわいい」という概念が、こんなにも面倒にねじくれた形で、自分の中に陣取っていたことである。マグを通して僕はそれに気づいた。たぶん僕はずっと、「かわいい」と言いたかったのだ。なぜなら、僕は自分の中の欠点を無視して排除しようとするのにとっくに疲れていたし、それを取り戻したいともずっと思っていたからだ。そして自分の欠点を認められるようになりたい、つまり自分のかわいさに気づきたいと思っていたのだろう。まさにマグが僕の口を借りて示したように。

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