6 この生地でいいんです!(試し読み)

「そんなに女物の生地がいいなら、自分で作ればいいんじゃない?」

 そんなことを妻に言われた。女物の生地で男性の和服を作ろうにも、仕立てるのは高くつく。ならば、というわけだ。しかし裁縫は小学校の家庭科以来していなかった。しかも、和服など特別な知識がなければ無理だろう。不安の声が頭の中でこだまする。それでも仕事をしながら、夕飯をたべながら、トイレにこもりながらつい考える。和服を自分で縫う。インターネットで検索すると、和裁の学校や教室の案内に混じって、和服作りを趣味にする人のブログがいくつもヒットする。記事から察するにほとんどは女性らしかった。自分の好きな生地を買い、自宅で着物を縫う過程を、みな楽しそうに綴っている。文章を追いながら作業の様子をおぼろげに想像するうちに、いつしか自分の姿も重なっている。やはり興味がある。自分で縫ってみたいと思い始める。独学でやるか、誰かに習うか。教則本などもあるので独学も可能そうではあるが、和服はそれを着て外に出るのだ。中途半端な出来にはしたくなかった。僕は先生を探すことにした。

 と、勢い込んだものの、教室探しでつまづいた。カルチャー教室のたぐいはほとんど平日の昼間にやっているので、仕事が土日休みの僕は通えない。妻を送り出して習わせて後で教えてもらおうかとも思ったが、妻にメリットがないことに気づいて止めた。かろうじて土曜日やっているところでも、先生や教室の雰囲気までは情報があまりないので逡巡してしまう。決め手に欠けると判断した僕は、詳しそうな人に訊いてみようという結論に至る。

 二〇一六年の六月、僕は立川にある着物屋「着物りさいくる工房五箇谷」に向かった。おしゃれで手ごろな価格帯の着物が多く、よく行く店だ。妻も一緒だった。店はいつもより客が多かった。セールをやっているらしく、お店の入っているマンションの一室の隣の部屋のドアも空いていて、普段倉庫にしているらしいスペースにもたくさんの古着があった。まずは普通の買い物客を装い、着物を物色する。だいたい見終えたころ、僕は店長の五箇谷さんがレジの近くにいるのを確認する。いつも通り上品で華やかな着こなしである。

浴衣作りを習えるところがないか、僕はこの人に尋ねようとやって来たのだった。個人的な知り合いでもないのに、唐突にそんなことを尋ねたら怪訝な顔をされるのではないかと怖かった。客商売だから嫌な顔はしないだろうけど、商品について訊くわけでもないから親身になる義理はないしとか、頭がぐるぐるしてしてきて、僕はなかなかタイミングをつかめずにいた。とりあえずレジの近くで根付を物色するふりをしながら、時を待つ。そして客がはけ、五箇谷さんが一人になった。今がチャンスだ、と思うが、しかし話しかけられない。足を踏み出せない。そのとき僕は、膝が震えてしまって、本当に自分でもなぜかわからないほどビビってしまったのである。いま振り返れば、僕は自分の欲望を知られることが怖かったのだ。これから僕は自分で浴衣を縫ってみたいということ、しかも女物の生地を使って男物を作りたいということを、相手に説明しなければならない。僕は実際に自分の着たい着物を着た自分が、どう他人の目に映るかを知らなかった。だから僕は想像するしかなかい。男なのに裁縫をする、男なのに華やかな和服を着たい、男なのに女物の生地を使いたい、男なのに……? 気持ち悪い、男らしくない、おかしいという僕の想像のなかの世間の声が、僕の足を止めていた。

「はやく言いなよ」と横でうながす妻の腕を、震える手でつかんで言った。
「代わりに言って、頼む」
訝しげな様子の妻だったが、僕の表情からなにかを察したのか、五箇谷さんの元にすたすた歩いていき、すらすらと僕の知りたいことを尋ねた。五箇谷さんは僕が和服を習いたがっていることを知り、まずはちょっと珍しそうに、しかし嬉しそうに僕を見た。周りの店員さんたちも「いいですねー」とにこやかだった。僕は変な顔をされていないことに安堵した。僕の内心のてんやわんやをよそに、五箇谷さんは数秒の思案ののち、「深大寺先生なら大丈夫かな?」と呟いて携帯電話を取り出し、電話をかけた。

 そこからはとんとん拍子だった。深大寺先生とは、深大寺鈴之助さんという、毎月末に袴や和服関連の小物作りを教えている男の先生ということだった。男なんだ。それだけで不安の大部分が減った。本来その教室で教える品目に浴衣はなかったのだが、五箇谷さんの取りなしで特別に教えてもらえることになった。

 その場で申し込みし、月末に教室に裁縫道具と反物を持ってくればいいと言われた。反物なんてどこで買えばいいのかわからず訊いてみると、隣のセール会場で売っているという(商売上手!)(少しでもお店に貢献できてよかった!)。行くと確かに棒状に巻かれた布がいくつも置いてある。さっき覗いたときは全然気がつかなかった。まさか自分で反物を買うことになろうとは、数十分前まで思ってもいなかったのだ。積み重なった反物を順番に見ていくと、一つ目に留まった生地があった。あざやかな山吹色の地に大きく唐紅の花の絵が書かれている。充分な長さがあるか確認してもらうために、店員さんに渡す。さっきの顛末を知らないその店員さんは、女物の生地なんだけど……と困ったような顔をした。でも僕は、もう迷うことなく言った。

「この生地でいいんです」


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