第一交通産業傘下である琉球バス交通と那覇バスは、2009年$${^1}$$と2012年$${^2}$$に合併計画が出ている。親会社が同じで、社長も同一人物が務めており、定期会議等も合同で実施しているため、合併した方が効率的という判断$${^2}$$であるようだが、県内路線の6割以上を占めることとなることから、沖縄総合事務局との調整が必要$${^1}$$となるようで、現時点で実現はしていない(観光部門のみ2022年4月1日に琉球バス交通に統合)。
この両社の合併計画が出た2009年から、遡ること25年前である1984年~1986年ごろにも、両社の前身である琉球バスと那覇交通の合併計画が出たことがある。この当時の両社は、完全なる別会社で、経営者も異なる人物であったが、膨大な累積赤字を抱えるという共通点があり、バス事業の継続性を懸念しての合併計画であった。
西銘県知事からの提案が始まり
琉球バスと那覇交通の合併計画は、当時の沖縄県知事であった西銘知事からの提案であった。1984年(昭和59年)6月26日のことである。
当時の新聞記事を以下に抜粋する。
県知事が、特定の民間のバス事業者を名指しして、会社合併を提言することは、かなり特殊な事例だと思われるが、それほどまでにバス事業の持続性に県が危機感を持っていたのであろう。
この提言に対し、2社の社長間では早々に合意がされたようで、提言から2か月後には、両社の社長を委員長とする合併委員会事務局が設置された。
合併計画案に労働組合は反発
経営側での合併準備は着々と進められたが、合併に際しては、約400人の人員整理等の計画が入っていた。県知事からの提案から約半年後に、初めてその内容が経営側から労働組合側に公表された際には、当然ながら従業員側からは反発があり、結果的に12月6日~12日と16日~18日の約10日間にも渡るストライキに突入することとなった。
当時の新聞記事を以下に抜粋する。
労使間で合併に向けた協定を締結
険悪となった労使間であったが、最終的に合併に向けた協定を結ぶこととなった。内容としては、1985年(昭和60年)7月30日までに合併に合意し、同年11月30日に新会社を発足するというものであった。12月16日の無期限スト突入から早くも2日後にはストを全面解除し、協定を締結することができたことになるが、国や県の関与があったためかもしれない。
労使間で合併に合意
前述の通り、1985年(昭和60年)7月30日までに合併に労使間で合意することを約束されていたが、実際に労使間で合意されたのは、締切当日のことであった。
合意の調印式には、琉球バス、那覇交通の社長、全沖労(全沖縄交通労働組合=琉球バスと那覇交通の従業員で組織する労働組合)の代表のほか、県、国(沖縄総合事務局=バス事業の認可元)、私鉄総連(日本私鉄労働組合総連合会=全国の鉄道・バス会社の労働組合が属する中央組織)など、バス事業に関わるほぼすべての関係者が出席していたようで、この合併合意の調印により、新会社発足はほぼ確実なものになったとの情勢であった。
労使間の合意に当たっては、当初の約400人の人員整理から、約300人の人員整理に変更されたほか、希望退職職者への退職金上積みなども盛り込まれた。
労使間での合意書を当時の新聞記事から抜粋する。
合併計画は延期
前述の通り、ほぼ合併は確実かと思われたが、当初予定された1985年11月30日の新会社発足は守られず、実質延期となった。この時点では「延期」のようで、期限を決めずに合併に向けて検討を進めるという形であった。
経営側としては、1985年(昭和60年)7月30日に調印はしたものの、合併に対して消極的だったようで、調印後の進捗はあまり芳しくなかったようである。
合併計画は完全に白紙に
前述の新聞記事の最後にもあるように、1986年(昭和61年)1月18日時点で、2社の社長は合併に対してかなり後ろ向きになっていたことがうかがえる。後の新聞記事によると、1985年9月時点で琉球バス社内において実施された、2社合併後の経営状況のシミュレーション結果は、いずれのパターンにおいても悪化という結果になっていたようで、経営側では早々に合併のメリットが無いという判断だったのかもしれない。
実際、この合併計画は実現することなく、1986年(昭和61年)2月13日に、合併計画は白紙となることが、両者の社長により発表された。
合併計画が白紙となった翌日の朝刊$${^3}$$では、2面目、3面目の見開き2面の大半を使用して「社会的責任感が欠如 経営陣に強い不快感」「重大な背信行為」「もはや打つ手なし」「無念さ隠せぬ国側」という、経営陣を非難するようなかなりのインパクトのある題目が並ぶ記事が掲載されている。
この合併計画が白紙となった理由については、当時の新聞記事においては「会社側の事情$${^4}$$」として、具体には明らかになっていないが、後の県議会では「経営陣が(第三セクターとなることでの)県の関与を嫌がった」との説が挙げられている。
ちなみにウィキペディアの「那覇バス」と「琉球バス交通」の記事の中でも、この2社合併計画については記載があるのだが、なぜか「県が合併に反対して実現しなかった」という事実とは真逆の書き方になっている。
これは、ほぼ同時期に一瞬だけ出た「琉球バスと沖縄バスによる北部支線の分社化計画」と混同してしまったのかもしれない。なおこちらは、県や関係機関からの猛反対により、計画発案から1ヶ月で白紙撤回されている。
詳細は下記の記事で紹介している。
合併に向けたバス車両の準備
経営側での中では早々に後ろ向きだった合併計画であるが、この時期に購入された観光バス車両は、両社の統一を前提とした車種選定や塗装が実施されていた。
車種は、琉球バスに合わせる形で前面のナンバープレート上部に「行灯」が無いタイプに統一されていた。
塗装も「青」「オレンジ」「黄」の3色を使用する「合併準備塗装」とされた。ただ塗装の方は「色」が統一されただけで、なぜかデザインは全く異なるものであった。合併計画は順調に進んでいますよというアピールのためだけ・・・というのは考えすぎであろうか。
琉球バスと那覇交通の当時の車両を以下に示す。那覇交通はリンク先の最下段に写真が掲載されている。
脚注
那覇・琉球バス統合へ/第一交通 来年度中目指す(2009年12月11日 沖縄タイムス)
那覇・琉球バス統合/第一交通 来年計画(2012年5月19日 琉球新報)
社会的責任感が欠如 経営陣に強い不快感/重大な背信行為 抜本的な改善遠のく(1986年2月14日 沖縄タイムス)
バス合併を断念 経営陣が組合に回答/琉球・那覇交通 自主再建へ努力(1986年2月13日 沖縄タイムス)