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実現しなかった琉球バスと那覇交通の合併

第一交通産業傘下である琉球バス交通と那覇バスは、2009年$${^1}$$と2012年$${^2}$$に合併計画が出ている。親会社が同じで、社長も同一人物が務めており、定期会議等も合同で実施しているため、合併した方が効率的という判断$${^2}$$であるようだが、県内路線の6割以上を占めることとなることから、沖縄総合事務局との調整が必要$${^1}$$となるようで、現時点で実現はしていない(観光部門のみ2022年4月1日に琉球バス交通に統合)。

この両社の合併計画が出た2009年から、遡ること25年前である1984年~1986年ごろにも、両社の前身である琉球バスと那覇交通の合併計画が出たことがある。この当時の両社は、完全なる別会社で、経営者も異なる人物であったが、膨大な累積赤字を抱えるという共通点があり、バス事業の継続性を懸念しての合併計画であった。


西銘県知事からの提案が始まり

琉球バスと那覇交通の合併計画は、当時の沖縄県知事であった西銘知事からの提案であった。1984年(昭和59年)6月26日のことである。
当時の新聞記事を以下に抜粋する。

昭和59年6月26日
西銘知事は県庁に琉球バス・長濱社長、那覇交通(銀バス)・白石社長、沖縄バス・當山社長、東陽バス・祖堅社長、私鉄沖縄の宮城委員長、石原副委員長、知念書記長らを招き、琉球バスと那覇交通の合併を内容とする提言をした。提言は、年々悪化するバス企業経営のなかで賃上げなどをめぐり労使が対立、長期争議が繰り返されているが、その解決策として知事が断を下した。両社の合併提言は、他の二社に比べて累積赤字が膨大で59年3月末現在58億1700万円となっていることが最大の理由。

バス合併問題の経過(1985年7月31日 沖縄タイムス)

県知事が、特定の民間のバス事業者を名指しして、会社合併を提言することは、かなり特殊な事例だと思われるが、それほどまでにバス事業の持続性に県が危機感を持っていたのであろう。
この提言に対し、2社の社長間では早々に合意がされたようで、提言から2か月後には、両社の社長を委員長とする合併委員会事務局が設置された。

昭和59年7月24日
琉球バスの長濱社長と那覇交通の白石社長は西銘知事に「合併について基本的に合意できた」と報告した。
昭和59年8月末
琉球バスと那覇交通は合併作業の準備作業に入るため合併委員会事務局を設置。委員長は長濱琉球バス社長と白石那覇交通社長。

バス合併問題の経過(1985年7月31日 沖縄タイムス)

合併計画案に労働組合は反発

経営側での合併準備は着々と進められたが、合併に際しては、約400人の人員整理等の計画が入っていた。県知事からの提案から約半年後に、初めてその内容が経営側から労働組合側に公表された際には、当然ながら従業員側からは反発があり、結果的に12月6日~12日と16日~18日の約10日間にも渡るストライキに突入することとなった。
当時の新聞記事を以下に抜粋する。

昭和59年12月5日
会社側は組合側に対し合併委員会の決定事項として426人の人員整理、124台の車両、運行回数削減の合併計画案を初めて提案した。
昭和59年12月6日
組合側、賃上げ要求と大幅合理化を内容とする合併計画案に反発、スト突入(~12日)
昭和59年12月16日
沖交労が無期限ストに突入。

バス合併問題の経過(1985年7月31日 沖縄タイムス)

労使間で合併に向けた協定を締結

険悪となった労使間であったが、最終的に合併に向けた協定を結ぶこととなった。内容としては、1985年(昭和60年)7月30日までに合併に合意し、同年11月30日に新会社を発足するというものであった。12月16日の無期限スト突入から早くも2日後にはストを全面解除し、協定を締結することができたことになるが、国や県の関与があったためかもしれない。

昭和59年12月18日
沖交労ストを全面解除。労使は'84春闘の妥協に際し「会社側が策定した具体的な合併計画について昭和60年7月30日までに合意し、特段の事情がない限り同年11月30日を期して新会社を発足させる」との協定書を交わした。

バス合併問題の経過(1985年7月31日 沖縄タイムス)

労使間で合併に合意

前述の通り、1985年(昭和60年)7月30日までに合併に労使間で合意することを約束されていたが、実際に労使間で合意されたのは、締切当日のことであった。
合意の調印式には、琉球バス、那覇交通の社長、全沖労(全沖縄交通労働組合=琉球バスと那覇交通の従業員で組織する労働組合)の代表のほか、県、国(沖縄総合事務局=バス事業の認可元)、私鉄総連(日本私鉄労働組合総連合会=全国の鉄道・バス会社の労働組合が属する中央組織)など、バス事業に関わるほぼすべての関係者が出席していたようで、この合併合意の調印により、新会社発足はほぼ確実なものになったとの情勢であった。

琉球バスと那覇交通(銀バス)の合併問題は30日午後の労使交渉で基本的な事項について合意が確認され、11月30日の新会社発足は確定的なものとなった。
 (中略)
合併調印式には、長濱弘琉球バス社長、白石武治那覇交通社長、両者の従業員で構成する全沖縄交通労働組合の石原昌明委員長、仲宗根義一副委員長、知念幸一書記長をはじめ国、県や私鉄総連、県労協、私鉄沖縄の代表ら多数が出席。合併合意書に長濱社長(合併委員会委員長)と沖交労の石原委員長が交互に調印。大きな拍手の中で長濱社長が「両社合併に向けて重点5項目を別紙の通り基本合意しました。合併に伴って離職を余儀なくされる者の雇用対策については最大限のご協力をお願いします」と要請書を読み上げた。

11月30日に新会社発足/琉球・銀バス労使、合併合意書に調印/人員整理350人に縮小(1985年7月31日 沖縄タイムス)

労使間の合意に当たっては、当初の約400人の人員整理から、約300人の人員整理に変更されたほか、希望退職職者への退職金上積みなども盛り込まれた。
労使間での合意書を当時の新聞記事から抜粋する。

合意書
琉球バス株式会社および那覇交通株式会社(以下会社という)と全沖縄交通労働組合(以下組合という)は、1984年12月18日の企業合併に関する協定者に基づき会社合併に関し、基本事項につき次の通り合意いたします。

 記
一、合併に伴う人員整理の人数は350人とする。
二、合併に伴う希望退職者には、退職金にその15%を上積みして支払い、勧奨退職者には退職金にその5%を上積みして支払い、会社都合による退職者に対しては退職金のみを支払うものとする。
三、合併後の新会社の退職金支給規定は、1985年7月16日会社提案の別表の通りとする。
四、実乗務時間を5時間50分とする。ただし、ダイヤ編成により、協定時間に足りない部分については、ダイヤ運用基準を作成し運用する。
五、人事権の確立については別途運用基準を作成する。

1985年7月30日
合併委員会 委員長 長濱弘
全沖縄交通労働組合 委員長 石原昌明

11月30日に新会社発足/琉球・銀バス労使、合併合意書に調印/人員整理350人に縮小(1985年7月31日 沖縄タイムス)

合併計画は延期

前述の通り、ほぼ合併は確実かと思われたが、当初予定された1985年11月30日の新会社発足は守られず、実質延期となった。この時点では「延期」のようで、期限を決めずに合併に向けて検討を進めるという形であった。

きょう30日は琉球バスと那覇交通(銀バス)の労使が昨年6月の西銘知事の合併提言に基づき、新会社を発足させると協定したタイムリミットとなっているが、会社側の合併作業でこの日の新会社発足はできなくなった。
 (中略)
特にこれまでの労使の合併交渉の中で経営側が述べてきた新会社発足後の財政見通しの厳しさ、金融機関と融資条件での話し合いの厳しさ、行政の対応に不安があることなどを説明し、しばらく冷却期間を置き、合併について検討したいとして行政当局の協力も申し入れた。また、知事が、いつごろ合併できるか明らかにするよう確認を求めたところ、長濱社長は「合併の期限を切ると負担になる。協定の内容は30日以降も有効だという認識に立っている」と語った。

長濱社長 知事に陳謝 バス合併/"協定ほぼに遺憾" 知事がコメント(1985年11月30日 沖縄タイムス)

経営側としては、1985年(昭和60年)7月30日に調印はしたものの、合併に対して消極的だったようで、調印後の進捗はあまり芳しくなかったようである。

昭和60年9月9日
2社労使による合併交渉が41日ぶりに再開され、組合側は基本合意した5項目の実施方法などを追及した。
昭和60年10月18日
県労協、沖交労、2社の「4者協議会で労組代表は経営側に対し、2社合併を前向きに取り組むように申し入れた。席上、長濱社長は「行政側の対応に不安がある」と表明、消極的姿勢を示した。
昭和60年11月28日
2社の社長、琉銀と沖銀の両頭取と会い合併に伴う融資面で話し合うが結論に至らなかった。
昭和60年11月30日
長濱社長は西銘知事に対し期限内に合併・新会社発足ができなかったことに陳謝。
昭和60年12月27日
「4者協」で労組代表は経営側に合併メドを明確にするよう迫ったが、合併姿勢を明らかにしなかった。
昭和61年1月18、19日
琉球バスの長濱社長は私鉄総連の平田副委員長に対し独自の再建策を検討させていることを明らかにした。白石銀バス社長もこれまでより合併に対し後退した姿勢を示した。

バス合併問題の経過(1986年2月14日 沖縄タイムス)

合併計画は完全に白紙に

前述の新聞記事の最後にもあるように、1986年(昭和61年)1月18日時点で、2社の社長は合併に対してかなり後ろ向きになっていたことがうかがえる。後の新聞記事によると、1985年9月時点で琉球バス社内において実施された、2社合併後の経営状況のシミュレーション結果は、いずれのパターンにおいても悪化という結果になっていたようで、経営側では早々に合併のメリットが無いという判断だったのかもしれない。

特に労組サイドでは、昨年9月段階で長濱社長が同社の顧問の公認会計士に作成させた2社合併後の財務状況を試算させた報告書が根拠になっていると見ている。同報告書では3つのケースについて新会社の年次ごとの財務状況を示しているが、いずれにおいても経営状況は悪化するとの予測になっている。

社会的責任感が欠如 経営陣に強い不快感/重大な背信行為 抜本的な改善遠のく(1986年2月14日 沖縄タイムス)

実際、この合併計画は実現することなく、1986年(昭和61年)2月13日に、合併計画は白紙となることが、両者の社長により発表された。

一昨年の西銘知事の提言で進められた琉球バスと那覇交通(銀バス)の合併作業は、経営側の都合により棚上げされた状態になっていたが、13日午前、那覇泉崎の二社合併委員会事務局で開かれた県労協、沖交労、両社長を交えた「4者協議会」で長濱弘琉球バス社長(2者合併委員会委員長)らは、初めて「これまで進めてきた2社合併作業を断念したい」と文書回答した。引き続き良社長は、県庁に西銘知事を訪ね、合併断念の報告をした。

バス合併を断念 経営陣が組合に回答/琉球・那覇交通 自主再建へ努力(1986年2月13日 沖縄タイムス)

合併計画が白紙となった翌日の朝刊$${^3}$$では、2面目、3面目の見開き2面の大半を使用して「社会的責任感が欠如 経営陣に強い不快感」「重大な背信行為」「もはや打つ手なし」「無念さ隠せぬ国側」という、経営陣を非難するようなかなりのインパクトのある題目が並ぶ記事が掲載されている。

この合併計画が白紙となった理由については、当時の新聞記事においては「会社側の事情$${^4}$$」として、具体には明らかになっていないが、後の県議会では「経営陣が(第三セクターとなることでの)県の関与を嫌がった」との説が挙げられている。

琉球バスは、1985年11月30日をもって銀バスとの合併がほぼ合意され、これは当時の知事提言によって国、県、金融機関を初め当該労組も含め社会的公約に近いものになっていたにもかかわらず、はっきりした理由も示さずに、この文字どおりの天下国家への社会的公約をほごにしたのであります。当時言われたのは、両社のトップがいわゆるオーナー経営者であり、いずれもバスに関連する多くの関連事業を一族で支配しているところから、合併新会社に県の経営参加がなされることによって関連事業を含めてメリットを失うことを最も恐れたからであったということであります。これが事実であればバスの持つ公共性を全く無視したものであり、公共交通にかかわるものとしての使命を投げ捨てたものと判断をせざるを得ないのであります。

沖縄県議会 1994年(平成6年)第1回定例会-3月9日-6号
太字は筆者によるもの

ちなみにウィキペディアの「那覇バス」と「琉球バス交通」の記事の中でも、この2社合併計画については記載があるのだが、なぜか「県が合併に反対して実現しなかった」という事実とは真逆の書き方になっている。

なお、1990年ごろには琉球バス交通の前身の琉球バスとの合併計画があった。そのころの準備として、両社の観光バスのデザインやカラーをほぼ同じにしたりした(現在でも琉球バス交通に合併準備塗装観光バス車両が存在)が、県や関係機関から猛反対され、合併はなされなかった。

「那覇バス」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これは、ほぼ同時期に一瞬だけ出た「琉球バスと沖縄バスによる北部支線の分社化計画」と混同してしまったのかもしれない。なおこちらは、県や関係機関からの猛反対により、計画発案から1ヶ月で白紙撤回されている。
詳細は下記の記事で紹介している。

合併に向けたバス車両の準備

経営側での中では早々に後ろ向きだった合併計画であるが、この時期に購入された観光バス車両は、両社の統一を前提とした車種選定や塗装が実施されていた。
車種は、琉球バスに合わせる形で前面のナンバープレート上部に「行灯」が無いタイプに統一されていた。
塗装も「青」「オレンジ」「黄」の3色を使用する「合併準備塗装」とされた。ただ塗装の方は「色」が統一されただけで、なぜかデザインは全く異なるものであった。合併計画は順調に進んでいますよというアピールのためだけ・・・というのは考えすぎであろうか。

琉球バスと那覇交通の当時の車両を以下に示す。那覇交通はリンク先の最下段に写真が掲載されている。

脚注

  1. 那覇・琉球バス統合へ/第一交通 来年度中目指す(2009年12月11日 沖縄タイムス)

  2. 那覇・琉球バス統合/第一交通 来年計画(2012年5月19日 琉球新報)

  3. 社会的責任感が欠如 経営陣に強い不快感/重大な背信行為 抜本的な改善遠のく(1986年2月14日 沖縄タイムス)

  4. バス合併を断念 経営陣が組合に回答/琉球・那覇交通 自主再建へ努力(1986年2月13日 沖縄タイムス)

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