見出し画像

89番・糸満線の航空隊経由の歴史を調べてみた

89番・糸満線には、メインである「那覇西高校経由」のほかに「航空隊経由」が設定されている。「航空隊」とは、那覇空港に隣接して拠点を置く航空自衛隊那覇基地のことである。
この航空隊経由は、2024年7月現在では1日2本のみとかなり少ないが、かつてはメインの系統であり、1日70本近く運行されていた時期もあった。


航空隊経由のルートは米軍基地内であった

航空隊経由のルート上には、米軍の「那覇空軍・海軍補助施設」が立地しており、大半のエリアは本土復帰直後の1972年5月15日時点でも未返還であった$${^1}$$。

那覇空軍・海軍補助施設と国道331号
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

この未返還のエリアのうち、後のバスルートとなる軍桟橋前~第二ゲートの国道331号の区間は、国道には指定されていたものの、米軍基地内にあることから、県民が利用できない米軍専用道路となっていた。
本土復帰前(基地返還前)の1970年5月当時の航空写真を以下に示す。既に後の国道331号となる道路(赤線)が存在するが、この区間は、本土復帰後も米軍関係者しか利用できなかった。

那覇空軍・海軍補助施設と(現)国道331号 1970/05/12撮影
(国土地理院の空中写真【MOK701-C12-13】を筆者が加工)

1972年10月には「国道331号線等即時開放要求住民総決起大会」が開催されるほど、早期の返還が求められていたが、本土復帰の翌年である1973年(昭和48年)7月30日に、ようやく国道331号線にあたるエリアの返還が実現した。

昭和48年7月30日 26,000m2を返還(国道331号用地)

米軍基地環境カルテ 那覇空軍・海軍補助施設(H29.3)p.64-3
国道331号線等即時開放要求住民総決起大会
(出典)那覇市歴史博物館 提供【資料コード02000707】 

国道331号返還と同時に運行を開始

前述の国道331号の返還と同日(1973年(昭和48年)7月30日)に、糸満線の航空隊経由も運行を開始した。

昭和48年7月30日 糸満線、航空隊経由運行開始

沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.57

1977年12月当時の航空写真を以下に示す。

那覇空軍・海軍補助施設と国道331号 1977/12/23撮影
(国土地理院の空中写真【COK771-C59-5】を筆者が加工)

ルート上には、2つのバス停が新設された。なお、この当時は、国道331号の道路用地部のみが返還されたため、沿線は米軍基地と自衛隊基地のみであった。そのため前述の地図でも記載した国道331号上に新設されたバス停の名称も米軍基地の施設に由来する、第一ゲート(現・金城)とPX前(現・航空隊前)という名称であった。

那覇空軍・海軍補助施設の施設配置図とバス停の位置図
(出典)「米軍基地環境カルテ 那覇空軍・海軍補助施設(H29.3)p.64-3」を筆者が加工

32番・糸満線の航空隊経由として運行開始

繰り返しになるが、航空隊経由の運行開始は、1973年7月30日のことである。ただし、89番・糸満線としてではなく、32番・糸満線の航空隊経由として運行を開始した。
下記の1978年当時(730以前)の写真でも「航空隊経由」のプレートを掲げているが、系統番号は32番であることが確認できる。

32番・糸満線の本線は、那覇市と糸満市を最短距離で結ぶバス路線であったが、那覇市内では米軍基地である那覇空軍・海軍補助施設を避けるために小禄経由で運行されていた。

那覇市糸満間に、沖縄バス、昭和バスの2社が相当数の台数を繰り出して、朝早くから夜晩くまで運行を続けておりますが、これは本来ならば、3号線をそのまま通っていけば最短距離を、そして立派な道路を通れるわけでありますが、アメリカ軍の必要によって現在那覇の航空隊で第一ゲート、第二ゲートという二ツの関所を設けて遮断しております。それで民車輌の通行を制限しておりますので、バスの通行はもちろん、ゆるされておりません。そのために現在の那覇-糸満間のバスは垣の花の浅橋前からペリーを通り字小禄、新部落、字上原というような3号線裏を抜けて、往復しております。

那覇市議会 1959年(昭和34年)第32回定例会-06月16日-04号
太字は筆者によるもの
(筆者注)3号線=軍道3号線=現在の国道331号

この迂回感のある本線に対して、より最短で結ぶ航空隊経由が新設された形である。

1975年当時の航空隊経由の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

ただ、前述の通り航空隊経由の沿線には、米軍基地と自衛隊基地しかなかったためか、1975年3月末時点で本線(小禄経由)が1日147本運行されていたのに対し、航空隊経由は1日28本のみであった。
32番・糸満線の系統の1つとなったのも、運行開始当初は、単独路線としての需要が見込めなかったからかもしれない。

1975年3月末当時の32番・糸満線の概要
昭和50年度 業務概況(1975年7月 沖縄県陸運事務所発行)p.24を元に筆者が作成

1979年までに89番・糸満線として独立

32番・糸満線の1系統として運行を開始した航空隊経由であるが、少なくとも1979年8月1日時点では、89番・糸満線として独立したバス路線となった。同じ糸満線を名乗るのに系統番号が32番に近い番号とならなかったのは、32番の前後の系統番号が既に他の路線で使用されていたためである。
なお、沖縄本島の系統番号は、1975年までにある程度規則性をもって88番までが一斉に付与されたが、それ以降については運行開始順または認可順に付与していたようなので、89番・糸満線は、規則性が無い系統番号が付与された第1号である。

89番・糸満線は、1日69~71本が運行されていたようで、1975年3月時点と比較すると倍以上に増便されていることから、那覇市と糸満市を最短で移動する需要が高まったようだ。ちなみに、派生元であった32番・糸満線は1日104~106本と減便されている。

1979年8月1日当時の32番・糸満線と89番・糸満線の概要
昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)p.25、29

なお、この当時は、那覇西高校などが立地するエリアは、まだ那覇空軍・海軍補助施設として使用されていたことから、89番・糸満線は、航空隊経由のみの設定であった。
また、上記の表からもわかるように、32番・糸満線と89番・糸満線は、この当時から琉球バスと沖縄バスの2社により運行されていた。小禄経由(32番・糸満線)は琉球バスの運行本数が圧倒的に多かったが、航空隊経由(89番・糸満線)は沖縄バスの方が若干多く運行していたようだ。

1989年7月には山下経由・金城経由が新設

89番・糸満線に派生系統が新設されたのは、1989年7月のことである。航空隊経由のほかに、山下経由と金城経由(現・那覇西高校経由)が新設された。

1989年7月 糸満線山下、金城経由運行開始

沖縄バス60年のあゆみ(2011年3月 沖縄バス発行)p.39

1989年7月当時の89番・糸満線(3系統)の運行ルートを以下に示す。

1989年7月当時の89番・糸満線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

那覇空軍・海軍補助施設は、1980年3月から返還が始まり、1986年10月までに全面返還された。土地区画整理事業も1983年度より開始され、徐々に整備が進んでいったことから、金城経由と山下経由の2系統もそれに併せて新設されたのであろう。
ただし、返還跡地はこの時点ではまだ造成途中であったためか、金城経由も山下経由も1日5本ずつのみであり、2024年7月現在とは状況が異なり、航空隊経由が本線、金城経由と山下経由が派生系統であった。

1993年11月1日当時の89番・糸満線の概要
運賃及び粁程表 平成5年11月1日改定(1993年11月 沖縄県バス協会発行)

なお旅客案内上は「金城経由」ではなく「那覇西高校回り」と案内されていたようである。

1998年時点ではメインが那覇西高校経由に

1日5本で運行を開始した金城経由であるが、1998年6月時点ではこちらがメインとなっている。一方で、航空隊経由は1日20本にまで減便された。

1998年6月1日当時の89番・糸満線の概要
運賃及び粁程表 平成10年6月1日改定(1998年6月 沖縄県バス協会発行)

再開発に伴い、現在は沖縄都市モノレールが走る県道221号線沿いの方が需要が高まったためであろう。なお、モノレール開通から約7年が経過した2010年3月1日からは、少しでもモノレール利用者の需要を拾うためか、航空隊経由は赤嶺駅前を経由するルートに変更されている。

2010年3月当時の89番・糸満線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

那覇交通にも航空隊経由の路線があった

2024年7月現在は、航空隊前経由のバス路線は、89番・糸満線のみであるが、かつては那覇交通にも航空隊経由の路線があった。
運行されていたのは6番・神原線で、三重城営業所を起終点とし、市内を一周する路線であった。運行ルートを以下に示す。

6番・神原線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

ただ、6番・神原線の運行期間はかなり短く、1976年5月1日~1977年6月1日の約1年間のみであった。

新設された2つのバス停は後に改称

航空隊経由の運行開始と同時に新設された2つのバス停名(第一ゲート、PX前)は、冒頭でも書いた通り当初は米軍基地に由来するものであったが、基地が返還された後は実態にそぐわないと判断されたのか、いずれも変更済みである。

最初に変更されたのはPX前であり、現在は航空隊前となっている。変更された時期は不明であるが、1980年時点ではPX前だった名称は、1993年時点では航空隊前になっている。那覇空軍・海軍補助施設の返還に合わせて、1980年代に変更されたようだ。
もう1つの第一ゲートの変更は遅く、2005年2月~6月頃のことである。変更に際して、変更後の名称候補としては、住所に由来する「金城」と施設名に由来する「陸上自衛隊前」があったようだが、最終的に金城に改称されている。

アンケート結果につきましては、20人の構成員でございますけれども、20人全員の方が出席されまして、そのうちの17人の自治会長さんが、現在の「第一ゲート」のバス停留所の名称については、変更したほうがよいとのご意見でございました。
また、名称を変更する場合、どのような名称がよいのか、それぞれのご意見をご自由に挙げていただく方式でお願いいたしましたところ、1番目に多い名称が金城(かなぐしく)の7.5人。2番目に陸上自衛隊前が7人。3番目に小禄第一停留所が1.5人。4番目に、北向け(陸上自衛隊那覇駐屯地)が0.5人。5番目に南向けに(かなぐしく)が0.5人。名称なしが3人で以上20人の自治会長さんからアンケートを回収させていただきました。

那覇市議会 2005年(平成17年)6月定例会-06月13日-07号
太字は筆者によるもの

ちなみに、同じく米軍基地に由来する第二ゲートバス停は、2024年7月現在も名称は変わらずである。米軍基地に由来するバス停名で、基地は無くなったが、バス停名で残っている事例は、県内でもここだけかもしれない。

脚注

  1. 米軍基地環境カルテ 那覇空軍・海軍補助施設(H29.3)p.64-3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?