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59番・新垣線の歴史を調べてみた

沖縄県中城村に「第二登又」というバス停がある。「第二登又」があるので「第一登又」またはただの「登又」というバス停が前後にありそうだが、2024年2月現在のバス路線図では見当たらない。
「第一登又」はかつて東陽バスが運行していた59番・新垣線という路線が停車していたバス停であった。同路線は2005年3月末をもって廃止されたため同日をもって「第一登又」は廃止となったが、他の路線も走っていた「第二登又」のみが現在でも残っている状態である。
今回はこの廃止された59番・新垣線の歴史について整理してみた。


1959年に延長が認可された模様

新垣線が運行を開始した時期は不明であるが、1959年当時の幾つかの新聞記事の見出しには「新垣線」という路線名が現れている。

1959年1月3日 沖縄タイムス
 東陽バス新垣線増車認可
1959年3月31日 沖縄タイムス
 新垣線を延路/東陽バス
1959年5月27日 琉球新報
 3バス路線認可/松川線・新垣線・中の町線
1959年6月12日 琉球新報
 東陽バス/新垣線の延長認可

沖縄市戦後資料デジタルアーカイブ『Webヒストリート』

また「宜野湾市議会史」には、1959年4月に北中城村と宜野湾市普天間を結ぶ路線バスが運行を開始したと書かれている。
「新垣線」とは書いていないが、普天間と北中城村を結ぶ国道330号も県道81号線も、1950年時点で沖縄バスにより路線バスが走っていることから、敢えて頭出しするとしたら東陽バスの「新垣線」のことであろうという勝手な想定である。

1959(昭和34)年4月 北中城・普天間のバス開通

宜野湾市議会史 活動編(2006年3月 宜野湾市議会発行)p.499
1950年時点で沖縄バスが普天間と北中城村をバス路線を運行中
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

これらの情報と後述の路線情報を総合すると、以下のような感じであろうか。少なくとも1959年3月以前に運行を開始していたようである。

  • 1959年3月以前

    • 運行開始。与那原町~宜野湾市普天間の運行?

  • 1959年4月

    • 路線延長。終点が宜野湾市普天間から北中城村熱田に延長?

  • 1959年6月以降

    • 路線延長。終点が北中城村熱田から中城村当間に延長?

1960年代中盤には3系統が運行

1964年12月末当時のバス路線一覧$${^1}$$には、当然ながら「新垣線」の記載があるが、この当時は、後に本線となる与那原営業所~普天間~当間のほか、与那原営業所~普天間~当間~与那原営業所と1周する系統、当間~普天間~熱田の区間運行となる系統の全部で3系統が運行されていたようである。
想定されるルートを示してみた。

1964年当時の59番・新垣線の運行ルート(想定)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

また当時のバス路線一覧を抜粋して下記に示す。

1964年当時の新垣線
行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.75を元に筆者が作成
赤字は筆者が追記

上記に記載の始発終発時刻から想定するに、本線系統(与那原営業所~普天間~当間)は終日運行されたようだが、1周系統(与那原営業所~普天間~当間~与那原営業所)は早朝のみ、区間系統(当間~普天間~熱田)は日中を中心に運行されていたようである。
なお、区間系統の運行開始は、下記の新聞記事からすると1959年11月のことのようだ。これはコザ線の運行開始に伴い、重複運行となる与那原~奥間を廃止するためだったようである。

東陽バス申請の与那原-コザ線が10月31日付で認可になった。
 (中略)
新路線の認可で、従来の新垣線は、渡口、仲順、石平、普天間、新垣、奥間、当間、泊、久場、熱田、渡口に変更なった。

東陽バス、コザ-与那原間/新路線認可(1959年11月8日 沖縄タイムス)

その後、理由は不明であるが、与那原起点となる本線が復活し、1周系統も運行を開始したため、1964年時点では3系統が存在するようになったのであろう。

1969年時点で与那原~当間の本線のみに

1964年時点で3系統が運行されていたが、1969年9月時点のバス路線一覧$${^2}$$では、与那原営業所~普天間~当間のみの記載となっている。1周系統と区間系統は1965年12月$${^3}$$~1969年9月$${^2}$$の間に廃止となったようである。

1969年当時の59番・新垣線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

これにともない奥間~当間は廃止となった。同じ東陽バスが運行する30番・泡瀬東線が走っていたため問題ないという判断だろうか。

徐々に運行本数は減少

1969年9月時点$${^2}$$での運行本数は1日49本であり、1時間に2~3本が運行されていた。これをピークに徐々に運行本数は減少して行く事になる。

  • 1969年9月$${^2}$$:1日49本

  • 1979年8月$${^4}$$:1日41本

  • 1984年6月$${^5}$$:1日38本

  • 1985年6月$${^6}$$:1日30本

  • 1993年3月$${^7}$$:1日27本

  • 1994年3月$${^8}$$:1日21本

  • 1998年6月$${^9}$$:1日12本

  • 2004年4月$${^1}$$$${^0}$$:1日4本

1984年ごろに終点を安里に変更

1969年9月時点$${^2}$$で終点は当間であったが、後に500mほど南に進んだ安里に終点が変更されている。たった1バス停だけの延長であり、この延長された理由は不明である。 

1984年当時の59番・新垣線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

1983年6月時点のバス路線一覧$${^1}$$$${^1}$$での運行距離は26.3kmであったが、翌1984年6月のバス路線一覧$${^5}$$での運行距離は26.8kmと約0.5km延長されており、当間~安里の距離と一致することから、1983年7月~1984年6月に延長されたと思われる。

1996年ごろに終点を当間に変更

1980年代に安里発着となった59番・新垣線であるが、1996年ごろに再び当間発着に変更されている。

1996年当時の59番・新垣線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

この変更されている理由も不明である。
なお当間発着時の折返しは、現在の中城村役場の前の村道を通って折り返していたようである。

当間での折り返しルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

2003年に終点を泡瀬営業所に変更

2003年11月4日をもって渡口~当間が廃止となり、代わりに渡口から北上して、県総合運動公園前を経由し、泡瀬営業所へ向かうルートへと変更された。
同日をもって、渡口~県総合運動公園前~泡瀬営業所を走っていた58番・県総合運動公園線が廃止されていることから、その代替が目的であろう。なお、58番・県総合運動公園線の普天間~南新城、仲順~中城公園は、不採算区間であったためか、他の路線に引き継がれることは無く廃止となった。

2003年当時の59番・新垣線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

2005年をもって廃止

58番・県総合運動公園線を引き継いだ新垣線であるが、引き継ぐ前の2001年時点で廃止が検討されていたようである。

バスなどの⽣活路線の確保について、県が中⼼となって国や市町村、事業者らが話し合う第⼆回県⽣活交通確保協議会が26⽇、県庁で開かれ、離島を含むバス会社七社から廃⽌や路線の変更を検討している37路線が⽰された。
 (中略)
▽東陽バス 泡瀬東線(30)美東線(57)県総合運動公園線(58)東南植物楽園線(92)新垣線(59)城間線(⼤名経由、60)

県内バス37路線の廃⽌・変更を検討(2001年4月27日 琉球新報)

前述の通り、2003年に同じく廃止対象路線となっていた58番・県総合運動公園線を吸収しているが、赤字路線には変わりなかったようで、2004年4月に廃止が決まった。当初は、同年8月をもっての廃止が予定されていたが、半年ほど延期され、2005年3月31日をもって廃止された。

県生活交通確保協議会(議長・花城順孝県企画開発部長)が16日、県庁であり、東陽バスは59番新垣線を今年9月1日に廃止する方針を明らかにした。
 (中略)
東陽バス59番線は具志川市と佐敷町を結び、平日の運行回数は4回。中城村新垣地区が空白地帯となるが、同地区は村がコミュニティーバスの運行を民間委託、代替路線も近くにあるという。

東陽バス/59番新垣線を廃止へ(2004年4月17日 沖縄タイムス)

ちなみに、59番・新垣線の単独運行区間の平均利用者数は4人ということで、最も廃止の影響を受ける中城村としても、廃止は仕方がないという考えだったようである。

○企画課長 比嘉正豊
お答えいたします。まず基本的に廃止された普天間線の部分については、伊集からつまり登又の乗客数、区間乗客数というのが4名、最大4名ということがありまして、どうしてもその区間の運行形態は経営どころの話ではないという部分がありまして、最終的に村補助を出す、出さないという議論になりますと、どうしても3,000万円、4,000万円のお金になるということもありまして、そういう面では廃止に対してこれ以上の要請はできなかったというのが当時の実情でございます。

中城村議会 2012年(平成24年)第2回定例会-3月28日

59番・新垣線の廃止に伴い、「第一登又」が廃止されたため、冒頭で書いたように「第二登又」だけが残る状態となった。

なお、59番・新垣線の廃止から数日後の2005年4月4日より、新垣経由から琉大経由となった58番・馬天琉大泡瀬線が運行を開始しているが、こちらも黒字路線とはなりきれなかったようで、2015年3月31日をもって廃止されている。

59番・新垣線(廃止直前)と58番・馬天琉大泡瀬線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

脚注

  1. 行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.75

  2. 陸運関係資料 バス関係財務諸表(1968年10月~1970年10月 琉球政府企画局企画部)p.157

  3. 旅客自動車輸送実績報告書 各バス会社(1967年 琉球政府通商産業局運輸部)p.104

  4. 昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)p.27

  5. 昭和58年度 業務概況(1984年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.28

  6. 昭和59年度 業務概況(1985年9月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.26

  7. 平成5年度 業務概況(1993年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.26

  8. 平成6年度 業務概況(1994年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.25

  9. 運賃及び粁程表 平成10年6月1日改定(1998年6月 沖縄県バス協会発行)

  10. 東陽バス/59番新垣線を廃止へ(2004年4月17日 沖縄タイムス)

  11. 昭和57年度 業務概況(1983年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.28


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