見出し画像

37番・知念線と37番・那覇新開線の歴史を調べてみた

2024年2月現在、37番という系統番号は、東陽バスの「那覇新開線」に充てられている。この路線は、那覇バスターミナルから与那原、新開を経由して、南城市佐敷の馬天営業所または南城市役所へ向かう路線である。
だがかつては、37番は「知念線」という路線で、那覇バスターミナルから与那原、新開を経由して、南城市知念へ向かう路線であった。端的に書くと、「37番・知念線」を南城市佐敷止まりとした路線が「37番・那覇新開線」であり、これを聞くだけだと、「知念線」を路線短縮する形で「那覇新開線」が誕生したようにも聞こえるが、両路線は連続して存在しておらず、37番が欠番だった時期が約10年ほど挟まっている。


1960年時点では運行を開始

東陽バスが創業した当初の1951年9月9日の新聞広告$${^1}$$には「20分毎に佐敷へ(朝7時より)」という記述がある。「佐敷」は「知念」より那覇側にあった村なので、那覇から佐敷経由で知念へという解釈をすれば、この「佐敷へ」というのは知念線のことかと思われるが、残念ながら確証はない。
確実に運行していたことが確認できるのは、1960年11月時点$${^2}$$であり、1日62本が運行されていたようである。当時の想定される運行ルートを以下に示す。

1960年当時の想定される知念線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

なお、その約4年後の1964年12月末時点$${^3}$$で、1日26本に減便となっているが、代わりにその先の志喜屋まで行く志喜屋線も運行を開始しており、1日39本が運行されていた。合計で1日65本となるので、微増ということになる。

久手堅連絡所が管轄

知念線の管轄は、那覇側は本社があった那覇営業所であったと思われるが、知念側にも久手堅連絡所が設置されており、知念線(と志喜屋線)は、この久手堅連絡所の管轄だったと思われる。

37番・知念線の運行ルートと初代・久手堅連絡所
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

知念線の終点である知念バス停は、久手堅連絡所からさらに南に進んだところであり、1977年12月当時の航空写真を見ても、知念線の始発地である知念バス停付近には、折り返しのための駐機場は見当たらない。バス停近くの交差点が少し広くなっていることから、このスペースを使って折り返していたのだろうか。

37番・知念線の運行ルートと知念バス停 1977/12/07撮影
(国土地理院の空中写真【COK771-C62-23】を筆者が加工)

なお、同じく久手堅連絡所が管轄していた志喜屋線は、車両の運用上で久手堅連絡所での乗り換えが必須となっていたが、知念線については、連絡所と知念の間が約1.6kmしかないので、回送で行き来して対応していたかもしれない。いずれにしても、この当時の時刻表が手元にないため、実際の運用は不明である。

1986~1987年ごろに知念線は廃止

37番・知念線の廃止は、1986年4月$${^4}$$~1987年3月$${^5}$$ごろである。38番・志喜屋線に包括される経路であり、両者の違いは、知念~志喜屋の約2.6kmのみであったことから、敢えて別路線で残す必要はないという判断かもしれない。

37番・知念線(廃止)と38番・志喜屋線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

なお、知念線が廃止されるよりも前に、久手堅連絡所は東側に移転し、始発地である知念から離れてしまっているが、これも回送区間が伸びるといった面で、知念線の廃止要因の1つかもしれない。
1986年3月末時点$${^4}$$で、37番・知念線は1日30本、38番・志喜屋線は1日45本運行されていたが、37番・知念線が廃止された翌1987年3月末時点$${^5}$$で、38番・志喜屋線は1日71本へと増便された。ただし、2路線が重複していた那覇バスターミナル~知念間では、微減となった。

1996~1997年ごろに那覇新開線が運行開始

冒頭でも書いたように、37番・知念線が廃止されてからは、しばらくの間「37番」という系統番号は欠番となった。
那覇新開線として使用されるようになったのは、約10年後の1996年4月$${^6}$$~1997年3月$${^7}$$ごろである。

運行開始当初は、路線名の通り那覇バスターミナルを起点とし、南城市佐敷の新開を終点とする路線であり、新開~馬天営業所では営業運行を実施していなかった。これは、新開~小谷~馬天営業所の区間が元々沖縄バスのエリアであり、東陽バスは、後から馬天営業所の開設によって乗り入れを開始した経緯があるので、それに配慮した形であろうか。

37番・那覇新開線と39番・百名線(小谷経由)の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

ただ新開が終点であった期間は1年程度だったようで、1998年3月末時点$${^8}$$では、現在のように馬天営業所が終点となっている。短期間ではあるが、新開終点だった名残で、行き先表示器では2023年になっても、馬天営業所行きは「新開」行きの表示のままであった。

なお、一部では「新開」ではなく「新里入口」の表示となっている車両も存在したようである。「新里入口」は「新開」より1つ馬天営業所側にあるバス停なので、馬天営業所まで延長した後に作成されたものであると思われるが「馬天(営業所)」ではなく「新里入口」とした理由はなんだったのだろうか。

2006年に増便

2006年12月1日のダイヤ改正では、従来の1日10~15本から1日40~42本へと大幅に増便された。これは、38番・志喜屋線の減便(1日56~61本から1日29~31本に減便)によるものであり、那覇~新開の区間での東陽バス2路線の合計本数としては、1日71本から変わらずであった。

2014年に壺川経由が運行開始

2014年9月1日には、従来の開南経由とは別系統として、壺川経由が新設された。これは、前日(2014年8月31日)をもって廃止された、57番・那覇マリンタウン馬天線、59番・那覇マリンタウン線から引き継がれたものである。
運行開始当初は、那覇行きが早朝の1本、馬天営業所行きが早朝と夕方の1本ずつが運行されていたが、2024年2月現在は夕方の便は廃止され、早朝に上り下りとも1本ずつの運行となっている。

2019年に南城市役所発着が運行開始

2019年10月1日より、一部便が南城市役所発着へと変更となった。これは同日に実施された「南城市地域公共交通再編実施計画」に基づくバス路線再編に伴うものである。この時に誕生した南城市役所発着系統は、同日より39番・百名線から変更され運行を開始した沖縄バスの39番・南城線と完全に同ルートとなっている。

37番・那覇新開線と39番・南城線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

従来の馬天営業所発着の系統も存続したが、1日24本のうち半分以上となる1日20本が南城市役所発着となった。なお、2024年2月現在は1日15~16本のうち馬天営業所発着は1日2本にまで減便されている。

脚注

  1. (広告)◎御知らせ 東陽バス株式会社【旧協同バス与那原線】(1951年9月9日 うるま新報)

  2. 那覇市内交通緩和対策 会議録 市街バス経路調査(1966年6月 琉球政府通商産業局運輸部)p.53

  3. 行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.72

  4. 昭和60年度 業務概況(1986年8月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.25

  5. 昭和62年度 業務概況(1987年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.25

  6. 平成8年度 業務概況(1996年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.22

  7. 平成9年度 業務概況(1997年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.22

  8. 平成10年度 業務概況(1998年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.22

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?