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No.1001 水やり当番、大丈夫?

「節目」は、「木材や竹の、節のある所」であり、また比喩的に、「物事の区切りとなる(大事な)所」と言う意味でつかわれる言葉です。卑近な例ではありますが、今日のコラムは1001号目で、自分なりの一つの節目から新たな気持ちで1歩踏み出した「心の節目」ともなるものです。
 
さて、『論語』「為政」には、「孔子が一生を回顧して、その人間形成の過程を述べた」と言われる名言がおさめられています。
 
(原文)
子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩」。


(書き下し文)
子曰はく、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」と。


(口語訳)
子曰く、「私は十五歳のとき学問に志を立てた。三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。四十歳になると、心に迷うことがなくなった。五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。六十歳になると、人の言うことは何でも素直に理解できるようになった。七十歳になると、自分がしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった。」と。


これも、人生で節目となるそれぞれの年代を通して、いかに生きたかを客観視した孔子の言葉でしょう。
 
私は、今年70歳という節目の年を迎えていますが、孔子の言う「心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えない」ことの難しさを日々感じながら生活しています。きっと、周りに対する考えが至らない者だからでしょう。「気(き)配り、目(め)配り、心(こ)配り」のできる「き・め・こまやかさ」が、私の課題です。
 
この「節」には『山月記』の主人公・李徴のように「節を屈して」(志を曲げて)生きねばならない苦難を指す言葉がある一方で、「晩節」という言葉もあります。「晩節を全うする」とか、反対に「晩節を汚す」などと使われています。私は、人生の秋から冬を迎えつつある老齢の身だけに、「晩節」をもっと意識し、心して生きようと思い始めました。

中国には「寒花晩節」(かんかばんせつ)の言葉があるそうです。「年齢を全うすること」「人としての正しい道を踏み行うこと」の意味に用いられていました。朱子(朱熹)がまとめた、宋の名臣とされた人々の言行録集『宋名臣言行録』が出典だそうです。帝王学のテキストとして日本でも古来より読み継がれ、明治天皇も愛読した一冊だという記事を見つけました。ヘーボタン?
 
朱子(朱熹)は、中国南宋の儒学者で1130年~1200年の人ですから、平安末期から鎌倉初期の時代に相当します。その頃に生まれ、800歳にもなる言葉、それが「寒花晩節」です。老後を全うする種子を心に蒔かれた気分です。大事に育てなければならない種ですが、忘れん坊の私に、水やり当番、大丈夫かな?
 

※一昨日は、敬老の日のプレゼントと言うことで、少し早いけれども班長さんが老人の家々を周り、菓子折りを配ってくれました。子や孫たちと遠く離れて暮らす我々夫婦ですが、鶴亀の絵が印刷されたカードに、子ども会の一人が書いた「けんこうにおすごしください」の一言が心に沁みました。「ありがとう!」のお礼を申します。