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No.834 春よ、後押し、ありがとう!

色気より食い気では、人後に落ちない私でした。欠食児童よろしく、口に入るものなら何でもよく、折あらば皿まで食べてしまいそうな勢いのある若い時代もありました。そんな私でしたが、歳と共に変化が生じてきました。
 
アレクサンドロ・ソルジェニーツィン(1918年~2008年)は、ロシアの作家です。第二次世界大戦中に召集されましたが、1945年、砲兵大尉として従軍中にスターリン批判で政治的告発を受け10年間の捕虜収容所(ラーゲル)生活を送りました。その体験をベースに創作された中編小説が『イワン・デニーソヴィッチの一日』(1962年)です。1970年には、ノーベル文学賞を受賞しました。
 
その『イワン・デニーソヴィッチの一日』(新潮文庫、昭和52年9月30日、31版)は、第二次世界大戦中、ドイツの捕虜となったことでスパイと疑われ、投獄された主人公・シューホフ(=イワン・デニーソヴィッチ)の早朝から就寝するまでの獄中の一日を丹念に綴った一冊です。その中に、こんな文章があります。
「ラーゲル生活をはじめてから、シューホフは一度ならず、むかし村にいたころの食生活を思い浮かべた。ジャガイモをフライパンに何杯、粥(カーシャ)を鉄鍋に幾杯、いや、もっと前には、どえらい肉の塊りを食べていたものだ。それに牛乳なんか、腹の皮がさけるほど飲んだものだ。あんなに食べる必要はなかったのだ。シューホフはラーゲルにきてそう悟った。食べるときには、食べ物のことだけ考えればいいのだ。つまり、今、このちっぽけなパンをかじっているように、先ずちょっぴりかじったら、舌の先でこねまわし、両の頬でしぼるようにするんだ。そうすりゃ、この黒パンのこうばしさよ。」(P56~57)
 
そこに書かれていたシューホフ(イワン・デニーソヴィッチ)は、若い頃の私そのものでした。よく味わいもせず、腹がくちくなるまで食べました。

彼は、捕虜収容所に入った厳しい制限下で、食材をそこまで突き詰めて味わうことしか術がありません。しかし、心して味わってみれば、それぞれの食材には、十人十色、百種百様の味や匂いや歯ざわり喉越しがあるわけで、そこに豊かな個性があり十分感動できたのです。私の知らない世界でした。
 
子供の頃、病気で何も食べられず、ようやく食べられた重湯や粥の何と美味しかったことでしょう。空腹で仕方なかった時に握ってもらった塩オムスビの何とうまかったことでしょう。そんなことを知っていながら、この作品を読むまで、素材のその奥(先?)にある、真のうまさに気づいていなかったことを知らされたのでした。
 
寄る年波ばかりが理由ではありませんが、「早めし、大食らい」の看板を外し、今は「じっくり味わって楽しむ」ことにシフトしています。口に入れたら一度箸をおいて、何十回かかみしめて味わうことにしました。噛むごとに何かの包みが開かれるような味わいがあります。味覚も嗅覚も記憶も既に鈍り始めた今頃になって漸くそんなことが出来るようになりました。
 
こんなささやかな成長でも、素直に喜べる歳になりました。春の食材が、そっとやさしく後押ししてくれます。


※画像は、クリエイター・michiさんの、タイトル「春色」をかたじけなくしました。春は、爽やかな色、健やかな色をしています。お礼申し上げます。