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戦後75年

書架にある本の中には、いたみをおぼえる一冊があります。
 『加賀の千代女』(川島つゆ著 小学館 昭和17年9月30日初版発行 定価1円40銭 8,000部)は、私が大学生だった昭和50年前後に神田の古書肆にて低廉で購ったものです。子供にも分かり易く、嚙んで含めるような語り口調の文章です。

 その表紙の見返しには、次のような若い女性の水茎の跡があります。
 「昭和18年4月2日 村山中尉殿ヨリ
  なつかしき 君の残せし おくりもの おくりし君の 姿を偲ばる」
 この女性の歌の幼さからしても、文字の運び具合から言っても生真面目な十代の女学生だったと思われます。(スミマセン、まだ写真を取り込む技術がありませぬ…。)
 そして、本を贈った中尉は、少女の思い人か親しき人で、二十代の、まさに故国を離れ戦地に赴こうとする尉官だったのではないでしょうか。この本は、彼の忘れ形見になったのです。
 なぜ、この本を村山中尉は彼女に贈ったか。理由は、千代女の代表句にあると思います。
 「朝顔に つるべとられて もらひ水」
 「朝顔が井戸の釣瓶に絡んで咲いたものだから、花を折るのにしのびず、よその家から貰い水をしたことだよ。」という句意です。小さくとも健気に生きようとする命の尊さを重んじる、優しい心遣いの見える女性の句です。中尉は、少女に、優しい心根の美しい大和なでしこに成長して欲しいという思いを、本に託したのではないでしょうか。

 しかし、戦局は、日を経るにしたがって厳しさを増します。
 昭和17年6月には、ミッドウェイ海戦で日本海軍は惨敗。
     12月には、ガダルカナル島から撤退。
 昭和18年4月には、連合艦隊司令長官山本五十六が戦死。
     同4月には、アッツ島日本守備隊全滅。
     10月には、学徒出陣壮行会(明治神宮外苑競技場)
 村山中尉は、学徒出陣による将校ではなかったようですが、彼女と再会を果たす事は、叶わなかったのでしょう。村山中尉のお名前も、少女の名前も書かれておらず、探し当てようもありません。また、この本が古本屋にあったと言う事は、ご家族が整理されたと考える方が妥当でしょう。とするなら、彼女の人生にも予期せぬ不幸があったのかも知れません。

 私は、村山中尉の思い、そして受け取った少女の思いの籠ったこの本に出遭えたことに何か縁を感じており、こうして紹介させていただいています。世が世なら、結ばれたかも知れぬ彼らの不遇を深く思い、いたみながら…。