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No.813 昭和のアナウンサーの心意気

1964年(昭和39年)10月10日から行われた東京オリンピックの開会式で、NHKの北出清五郎アナ(1922年~2003年)は、テレビの実況放送で開口一番、
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和であります」
と胸のすくような名調子で語り、東京の青空を、歓喜に沸くスポーツの祭典を世界に発信しました。この時、北出アナウンサーは、42歳でした。私は、小5の11歳でした。
 
一方、ラジオの実況を担当したNHKの鈴木文弥アナ(1925年~2013年)は、
「開会式の最大の演出家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」
と語りかけたといいます。映像のない耳だけが頼りのラジオ中継だからこそ、大会をお日様が祝福しているという表現で、大会の華やかさに花を添えたのでしょう。鈴木アナウンサーは、39歳でした。
 
そして、その日その時、NHKの羽佐間正雄アナ(1931年~)は、アナウンサー歴10年目の実況要員として国立競技場の外で待機していた聖火の最終走者にインタビューするという仕事が与えられていたそうです。その「鳥肌のたったあの日-東京オリンピックの想い出-」という文章の一部をご紹介します。彼は32歳でした。
 
「(…略)さて、はるばるギリシャのオリンピアから運ばれてきた聖火を大観衆の見詰める中で136段の階段を上って点火する最後のランナーは、当時早大1年の坂井義則君。原爆の地広島県に終戦の月に生まれた若者であった。平和日本の新しい顔を世界にアピールするに相応しい代表である。
 刻々と迫る出番を前にして19歳の坂井君はやや緊張のせいか唇が渇いていた。だがそれ以上にマイクを持つ私の方が緊張していた。他人事ではなかった。
 『坂井君、落ち着いて』『はい大丈夫です』、短い問いと答えがあった後、やがて彼はスマートに、勿論若々しく、目と鼻の先にある競技場のゲートを目指して飛び出していった。澄み渡る東京の秋空には、青いもの以外は目に映るものがなかった。
 太陽という天然の照明がオリンピックという舞台をクローズアップする恵まれた日であった。」(以下、割愛)
 
佐久間アナが書いた原稿用紙5枚分に匹敵する「東京オリンピックの想い出」の一部を抄出しましたが、ここでも、
「太陽という天然の照明がオリンピックという舞台をクローズアップする恵まれた日」
という詩的な表現が生まれました。開会式のスタンドでの地面から沸き起こってくるようなどよめきや歓声が、今にも聞こえてきそうです。
 
その後、羽佐間アナウンサーは2度の開会式の実況を含め、夏冬11回のオリンピック中継を担当したそうです。あの想い出の記は、1988年(昭和63年)のソウルオリンピック後に書かれたものだそうで、この時、彼は既に57歳になっていました。その記憶力に、思わず唸ってしまいます。
 
1991年(平成3年)、ある出版社から送られてきた小冊子の中に載っていた羽佐間アナの回想文を毎日学級通信に紹介してあったので、こうしてお披露目することが出来ました。書き残しておいてよかったなと思いました。昭和のアナウンサーの心意気に「ほ」の字です。


※画像は、クリエイター・素晴木あい subarasikiaiさんお、タイトル「五輪のある風景を 期待を込めて 加工してみました」をかたじけなくしました。2020年東京オリンピックの「お台場で撮った五輪のシンボルの写真」だそうです。お礼申します。