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No.600 七七七五の26音のリズムが、時を超えて囁いてきます

「恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす」
夏を謳歌する蝉の大合唱を揶揄するかのような都々逸(どどいつ)ですが、七七七五の韻律の世界には、人情の機微に溢れるものが多く、先人の句につい前のめりになってしまう私です。
 
「親父ゃ卯年で お袋ぁ巳年 これがほんとの 生みの親」
「夢に見るよじゃ 惚れよが薄い 真に惚れれば 眠られぬ」
「松という字は 仲良い筈よ 公(きみ)と木(ぼく)との 差し向かい」
なんて歌われると、諧謔の面白みだけではない、親子の仲、男女の情、夫婦の絆の深さに鼻の奥がツーンとしてしまうのです。
 
「都々逸」は、江戸時代末期に都々逸坊扇歌(1804年~1852年)によって大成されたそうです。七七七五、細かくは三四・四三・三四・五の意味形式をとるのが一般的だそうですが、必ずしもこの限りではないところに都々逸の奥行きがあると思います。私のスキな都々逸を幾つかあげてみます。ズコーンと、みぞおちをやられます。
 
「あいとあの時 返事をせねば 今の苦労は あるまいに」

「逢えば手軽に 脱がせた羽織 なぜにこの様に 着せにくい」
 
「意見するのは 親身の人と 思いながらも 恨めしい」
 
「うちの亭主と こたつの柱 なくてならぬが あって邪魔」
 
「おろすわさびと 恋路の意見 きけばきくほど 涙出る」
 
「顔見りゃ苦労を 忘れるような 人がありゃこそ 苦労する」
 
「君は吉野の 千本桜 色香よけれど きが多い」
 
「九尺二間に 過ぎたるものは 紅のつきたる 火吹き竹」
 
「咲いて桜と 言われるよりも 散って牡丹と 言われたい」
 
「玉の輿より 味噌漉し持って つとめ嬉しい 共稼ぎ」
 
「積もる思いに いつしか門の 雪が隠した 下駄の跡」
 
「人の口には 戸は立てながら 門を細めに 開けて待つ」
 
「星の数ほど 男はあれど 月と見るのは 主ばかり」
 
「惚れさせ上手な あなたのくせに あきらめさせるの 下手な方」
 
「枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 知りながら」
 
「松の双葉は あやかりものよ 枯れて落ちても 二人連れ」
 
「わしとおまえは 羽織の紐よ 固く結んで 胸に置く」
 
もともとは、三味線を弾き鳴らして歌われたものだそうで、主として男女の恋愛や道ならぬ恋などを題材としたので「情歌」とも呼ばれたといいます。26音に籠めた男女の心は、世俗の垢に塗れた世界観の中にも、粋で雅な句もあり、心が手繰られてしまいます。
 
さて、七・七・七・五の音数律が基本の都々逸ですが「五字冠(かぶ)り」といって、五・七・七・七・五という形式の句も詠まれています。これ又、なかなか艶があります。

「朝顔が 頼りし竹にも 振り放されて うつむきゃ涙の 露が散る」

「朝顔の つぼみによく似た あの筆先で 書いた色文 今朝開く」

「朝咲いて 四つにしおれる 朝顔さえも 思い思いの 色に咲く」
 
「あの人の どこが良いのと 聞かれたならば どこが悪いと 問い返す」
 
「浮名立ちゃ それも困るが 世間の人に 知らせないのも 惜しい仲」
 
「この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい」
 
それにしても、日本人は、17音(俳句や川柳)、26音、31音(短歌)に心を共鳴させながら様々な思いを詠み込んできた民族です。そのリズムは、四季折々に奏でられる身近な自然の音から取り込んだものでもあるのでしょうか。この短詩型は、ジョークあり、ウィットあり、恋心あり、雅な風情あり、男女の機微あり、人生哲学あり、夢や希望までも包括できる時代を超えた器の大きさを持ち、魅力にあふれています。
 
「惚れた数から 振られた数を 引けば女房が 残るだけ」