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No.1280 鬼を飼いならす

「疑心暗鬼」の元となったお話です。
 
『列子』「説符」
【本文】
人有亡鈇者、意其鄰之子、視其行歩、竊鈇也。
顏色竊鈇也。
言語竊鈇也。
動作態度、無爲而不竊鈇也。
俄而抇其谷、而得其鈇、他日復見其鄰人之子、動作態度、無似竊鈇者。

【読み下し文】
人に鈇(ふ)を亡(うしな)へる者有り、其の隣の子を意(うたが)ふ。
其の行歩(こうほ)を視るに、鈇を竊(ぬす)めるなり。
顔色も鈇を竊めるなり。
言語も鈇を竊めるなり。
動作態度、為(な)すとして鈇を竊まざるは無し。
俄(には)かにして其の谷を抇(ほ)りて、其の鈇を得たり、他日復(また)其の隣人の子を見るに、動作態度、鈇を竊めるに似たる者無し。
 
【口語訳】
ある男が鉞(まさかり)をなくした。男は、隣の息子が盗んだんじゃないかと疑った。
その歩きかたを見ると、いかにも鉞を盗んだようだぞ。
あの顔色も、いかにも鉞を盗んだようだぞ。
しゃべり方だって、いかにも鉞を盗んだようだ。
その他、動作だって物腰だって、何もかもが、鉞を盗まない人のしぐさではないぞ。
しばらくして(ふと気づき)、谷間のくぼ地を掘り返してみると、(盗まれたはず)の鉞が出て来たではないか。(あらま!)後日、再び隣の息子を見ると、その動作も態度も、鉞を盗ったような人物には見えなくなっていた。
 
「ある、ある、あるっ!」
と、往年のTV番組「クイズ100人に聞きました」の会場の声が聴こえて来そうです。誰にも経験のありそうな、それでいて看過できない「寸鉄人を刺す」ような、とても大事なお話だと思うのです。むやみに人を疑うのは、誤りです。いや、過ちです。
 
斧(まさかり)をなくした男が、隣の家の息子が犯人だと疑い始めると、すべてがあやしく見えたのに、一転、疑いが晴れると、ぜんぜんあやしく見えなくなったという、まことにケシカランお話です。

ところが、この手の人を疑う心理は日常茶飯のことであり、誰もが「疑心暗鬼」に陥る危険性があるわけです。要するに、見る者の胸三寸で決まり、思いたいようにしか見えない厄介な思考回路なのです。

尤も、この話の中に「疑心暗鬼」の言葉は出て来ません。この話の解説に『沖虚至徳真経鬳斎口義』(チュウキョシトクシンキョウケンサイクギ)という舌を噛みそうな長い名の本があるそうです。林希逸(1193年~1271年)と言う宋代の儒学者の著したものですが、その中で、「諺に曰く、疑心暗鬼を生ずと。」とこの話を評しているそうです。林希逸の時代には「疑心暗鬼」という「ことわざ」として既にあったといいます。その説明については、八重樫一氏の「今日の四字熟語・故事成語」(No.3421【疑心、暗鬼を生ず】『列子』)に学ぶところが大でした。学恩に感謝します。
 
ところで、中国の「鬼」とはどういうものなのでしょう?気になったので調べました。
「日本中国友好協会」のページ「形のある『鬼』と形のない“鬼”」(2021年3月1日号 /連載・コラム)に書かれていたものを箇条書きしてみました。
●日本語の「鬼」という漢字は中国から借りたものだが、中国語の“鬼”は日本語とは中身が全然違う。
●中国の「鬼」は「神」と対となっている。偉い人が死んだら神に、普通の人や悪人などが死んだら鬼となる。
●「鬼」は普通、閻魔大王が管轄するという黄泉の国におり、普段は人間世界に現れない。
●恨みなどがあり、肉体が死んでも魂は死にきれず鬼となって人間世界に残り、祟りをしたりする。でも、暗闇の夜に現れるのが普通だ。
●形を持たないことから中国語では“疑神疑鬼”という諺が生まれ、懐疑心の強いことをいう。
●形のある日本の「鬼」とは桃太郎が刀で戦うが、形のない中国の“鬼”は「符」などで退治する。
●形のある鬼ならこちらは鍛えれば何とか退治できそうだが、形のない、心の中にいるような“鬼”には勝負しにくい。
ということでした。つまり、形をもった日本の「鬼」とは別物のようです。
 
「疑心」とは、文字通り「疑う心」のことですが、「暗鬼」は、「暗がりの中に見える正体不明の鬼」という意味であり、「恐怖心」をいや増すものなのでしょう。

おそらく、人間の得手勝手な思考によりもたらされるものなのでしょうから、逆に自分を客観視できるような「心に鬼を飼いならす」ことが求められるのかも知れません。心の中で良心の角を持った鬼が成長できたらイイネ!そんなことを考えました。あ、日本人的発想か?


※画像は、クリエイター・中川 貴雄さんの「節分」から、「桃太郎御一行と温泉に入る鬼」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。