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No.1309 諭吉という人

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり。(略)。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。(略)。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

福澤諭吉(1835年~1901年)が『学問のすゝめ』(初編)を著したのは、1872年(明治5年)のことで、37歳の時だったといいます。この時、諭吉は、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
と、人の平等を説いたのではありませんでした。「と言へり。」と言っており、紹介しているだけです。そして、さらに、
「しかし、この人間世界を見渡すと、賢愚あり、貧富あり、貴賎ありであって、その差が雲泥のごとく存在している。その理由は何か。(略)。学問を学んだから、賢くなり、身分が上がり、収入が増えたのに対し、学ばない者は、身分も収入も低いままである。」
と続けています。理想と現実の乖離に目を向け、学問の大切さを読者に説いているように思われます。

この『学問のすゝめ』は、1873年(明治6年)の日本の人口推計が3340万人だったというのに、なんと340万部ものベストセラーになったと言います。実に、10人に1人が読んだ計算になります。
 
当時の日本は長きにわたった鎖国が解かれ、明治維新を経て、広い視野に立った社会へ突入してゆく激動期で、新時代を切り拓く指南書として、多くの日本人が読んだ本でした。

その福澤諭吉には、いろんな業績があるようです。
その一つとして、「スピーチ」の訳には、もと中津藩で藩士が非公式に自分の意見を上申する時に使った「演舌書」という言葉を思い出し、演舌の「舌」を「説」にかえて「演説」という訳語を作り、ディベートは「弁論・討論」と訳したといいます。
 
また、1860年(万延元年)、咸臨丸で渡米した折、英語と中国語の単語・会話集を購入し、帰国後、発音と中国語の訳語の日本語読みをカタカナで付けて『増訂華英通語』を出版しました。その時に、発音の表記は英語の音に近づけようと、「V」の発音を表す「ヴ」も「思い付きの新案」としたのだといいます。
 
そのほか、少年少女向けの世界地理の本『世界国尽』では、地名等、なじみのない発音と表記を説明するのに、凡例で「書中、はひふへほの仮名文字に円き濁点を附けて、ぱぴぷぺぽと記したるあり。これは、はひふへほにもあらず、又ばびぶべぼにもあらず、のっぺらぽうなどいうぺぽの音なり」と案内したということを知り、とても興味深く思われました。
 
さらにまた、江戸時代までの表記であれば、例えば、「二千二十」と記します。これなら「千」等の位取りの文字が入るので読みやすくはなりますが、簿記や筆算には桁が揃わず不便です。そこで諭吉は一考し、近代簿記の方法を日本に紹介した『帳合之法』を記す際に、算用数字の「0」に相当する「〇」の文字を考案して、「二〇二〇」と表記するようにしたとも言われています。

福澤諭吉は、大分県中津市の出身で、父の百助は大坂の商人を相手に中津藩の借財を扱う下級役人だったそうです。決して裕福ではない家庭に育ちながらも、時代の中枢に生きて大事をなした人物でした。その諭吉の45歳前後の頃の身長は173cm、体重は約70kgだった(今日の40代の男性の平均は、171.2cm、71.3kg)といいます。
 
では、諭吉の名前の由来は何かと思ったら、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝の治世下の法令を記録した書物)を手に入れた夜に彼が生まれたからだそうです。「歌は世につれ、世は歌につれ」とか。人の命名も、世につれて変わってきました。


※画像は、クリエイター・「ニシ・フーマ」さんの1万円札の1葉をかたじけなくしました。新札発行で、福澤諭吉のお札も遠くなっていきます。