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No.1070 小春日和に鯉よ来い

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
1901年(明治34年) に刊行された与謝野晶子(1878年~1942年)の処女歌集『みだれ髪』(「臙脂紫」の26首目)に収載された歌です。「道を説く君」の「君」は、歌の師であり、夫となった与謝野鉄幹(1873年~1935年)だと言われています。
 
もっとも、鉄幹は女性遍歴の激しい人だったそうで、持てる男の性なのかも知れませんが、女学校教院時代に教え子と関係を持ち退職。その後、別の生徒と同棲し、一子をもうけています。その後、最初の夫人・浅田信子と離別し、二番目の妻・林滝野と同棲するも離別、そうして1901年に鳳晶子(与謝野晶子)と再婚(再再婚?再再再婚?)しました。
 
晶子は愛に一途な女性で、「産めよ殖やせよ」の国策に倣ってか、鉄幹との間に6男6女の子供をもうけ、ほとんど稼ぎの無かった鉄幹(後に、慶応大学教授となる)を支えるべく、来た仕事はすべて引き受け、生涯創作活動を続け、鉄幹と子供たちを支えました。
 
1911年(明治44年)、鉄幹は晶子の計らいでパリを訪れ、翌1912年5月に晶子も渡仏しました。フランスのほかロンドン、ウイーン、ベルリンなどを歴訪し4か月後の9月に帰国しています。
 
そんな中、こんな訪問もしています。
「私がロダン翁にお目に掛かったのは、1912年(大正元年)6月18日の午後でした。」
晶子は渡欧中に妊娠しており、ロダンと会った記念に命名したものが四男のアウギュストだそうです。晶子のロダンへの惚れ込みようや敬愛の証が、その名に見えます。

もっとも、明治・大正の時代にアウギュスト(四男)、さらにはエレンヌ(五女)などという名前をもらったのですから、子ども時代に苛めを受けたり、揶揄われたりしたであろうことは容易に想像できます。アウギュストは、後に「昱(いく)」と改名したそうです。また、五女のエレンヌは、改名できませんでしたが「幸子」と呼ばれたと言われます。
 
その与謝野鉄幹と晶子の6男6女の子どもたちの名前は、
長男・光(ひかる)、次男・秀(しげる)、長女・八峰(やつを)、次女・七瀬(ななせ)、三男・麟(りん)、三女・佐保子(さほこ)、四女・宇智子(うじこ)、四男・アウギュスト、後に昱(いく)と改名、五女・エレンヌ、五男・健(たかし)、六男・寸(そん)、六女・藤子(ふじこ)だそうです。
 
さて、トップ画像は、近くを流れる原川(活魚回転寿司「水天」の裏手の川)にいる鯉たちの昨日の1葉です。猛烈な台風や大雨の濁流にも流されず、淀みに隠れて難を逃れ、もう何年もここに棲みついています。雄か雌かも分かりませんが、私が勝手に名付け親になり、晶子に倣って鯉たちの名前を付けました。
一番大きい真鯉…光(ひかる)
二番目の真鯉…秀(しげる)
金色の緋鯉…八峰(やつを)
赤色の緋鯉…七瀬(ななせ)
銀色の緋鯉…麟(りん)
頭に赤い斑点のある緋鯉…佐保子(さほこ)
胴に赤い斑点のある緋鯉…宇智子(うじこ)
 
川の傍の家々の親切さんたちから餌をもらい見守られながらすくすく育っています。川辺に立つと、ゆっくり寄って来ます。今は亡き相棒のチョコと一緒に腰を下ろして眺めた光景です。