見出し画像

No.650 大相撲の名バイプレイヤーの思い出

どの社会や世界にでも「名わき役」なる人物がいるものですね。
私が7歳の時でしたから1960年(昭和35年)だったと思います。

「爺ちゃん、お相撲さんは、誰が強(つい)いん?」
「そりゃお前、大鵬じゃあわぇ!」
一緒に板張りの間にゴロリと横になって、肘枕を突きながらラジオの大相撲放送を観ていた祖父は、すかさず答えました。後に堺屋太一によって「巨人大鵬卵焼き」といわれるようになりましたが、子供の心をとらえた戦後の代表格でした。

大鵬(幸喜)関は、1940年(昭和15年)5月の生まれです。北海道の弟子屈町出身ということですが、出生地は樺太(現在のサハリン州)で、父親はウクライナ人だったそうです。その大鵬関の略歴ですが、
1956年9月場所が初土俵で、16歳でした。
1958年3月場所で三段目で優勝。
1959年3月場所で十両昇進し、四股名を「大鵬」とする。
1960年1月場所で新入幕。7月場所で新小結、9月場所で新関脇。11月場所で史上最年少の20歳5か月で幕内最高優勝を果たします。
1961年1月場所より新大関。9月場所で優勝し柏戸と共に横綱審議委員会で満場一致の推薦を受け横綱に昇進。大鵬は21歳3か月、柏戸は22歳9か月の若さでした。
 
その大相撲の裏方さんの一人には「呼び出し」さんがいます。相撲の取り組みの際に力士を「呼び上げ」たり、土俵の整備をしたり、触れ太鼓を叩いたり、競技の進行を務めたりと幅広い仕事をするそうです。ところが、面白いことに行司や相撲取りのような苗字はなく、名前だけで呼ばれます。江戸時代には、呼び出しに苗字をつけることが許されなかったそうで、床山さんと同じくその名残のようです。
 
私が子供のころの昭和30年代に小鉄という呼び出しさんがいたと記憶しています。彼はすでに70歳前後になっていたのではないかと思いますが、小柄で、痩せじしで、禿げ頭でした。記憶に残っている理由は、その声です。扇をゆっくり広げながら、
「にぃーし~、○○○~、○○○~、ひがぁーし~、○○○~、○○○~」
と確か2回名前を呼びあげました。その声は、頭のてっぺんから抜け出るメゾソプラノ?いやソプラノ?のような澄み切って甲高い呼び声です。長く尾を引く澄明な声が、館内にこだまするのです。浮き出した血管が切れるのではないかというくらいに全身全霊で力士を呼び出す姿に一種の気迫を感じました。土俵の上の、小さな男の、大きな姿でした。
 
彼がその朗々とお相撲さんの名前を呼びあげる間、人々は静かに彼の所作を見守り、その声に聞きほれます。嵐の前の静けさのような雰囲気です。呼び終わると、堰が切れたようにどっと大きな拍手が沸き起こります。小鉄への慰労と、土俵に上がる両力士への声援のためです。小鉄さんは、お相撲さんにとっての名演出家だったのかもしれません。行司さんのような派手さや威儀を正した名判官の趣きはいっさいありませんが、場面をいっきに最高潮に盛り上げる進行役です。中でも、彼の美声は子供の私まで虜にしました。
 
11日から始まった今年の大相撲九月場所は、今日で12日目を迎えます。横綱の途中休場、大関3人の予想外の負けがこむ中、平幕力士の善戦と活躍で連日会場がわいています。呼び出しさんの名調子に、今日も大一番の幕が切って降ろされます。

※画像は、クリエイター・はるよさんの大相撲の1枚をかたじけなくしました。お礼申し上げます。