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No.902 のりこえたい!

わが団地の裏手は、竹林を含む雑木林の小山です。何年前だったか、台風で夥しいほどの葉が空に舞いました。その葉をむしり取られた竹が、翌年には何事もなかったかのように青々とした葉をいっぱいにたずさえて右に左に揺れていました。流れに逆らうということなく、北風が吹けば南になびき、西風があれば東に身を傾けて風圧をしのいでいます。

ふと、平安時代の中頃に書かれた『更級日記』(竹芝伝説)の話を思い出しました。武蔵の国から衛士(えじ:宮中護衛の兵士)として都に上らせられた男は、宮中で働く最中に、思い出を口にしながら故郷を懐かしむのです。

「どうしてこんな苦しい目を見るのかなあ。わが国には七つ三つ作り置いてある酒壺に、瓢箪をたてに割った柄杓をさし渡して、その瓢箪が、南風が吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびく、あののんびりした様子を見ることもかなわないで、こうして宮中の警護に駆り出されているのだからなあ。」

『更級日記』(竹芝寺)より

大きい木ほどなびきません。幹が太いので当然でしょうが、一見、泰然とし堂々としていながら、その実、強風や烈風に耐えられずに折れ、倒れ、枯れてしまったりします。たわめない剛直さが、仇になることがあります。
 
一方、細い木や草花の方がしなやかで、よくなびきます。風雨にもてあそばれ、身もだえしながらも、決して折れない、内に秘めた強靭さがあります。どちらも魅力的であり、共に兼ね備えたいと望むのは矛盾した生き方なのでしょうか?

その昔、孔子(B.C.550年前後~B.C.480年前後)は『論語』(為政)の中で
「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」
(70歳になってから、心の欲するままに行動しても道徳の規準から外れる事がない)
と自らを評しました。

私は、その解を得られないまま、時には「矩踰え」(のりこえ?)て、思い至らず、いくつもの過ちをおかしながら、何とか生きています。


※画像は、クリエイター・今井 雄仁@発明デザイナーさんの、タイトル「『AI時代の人間の在り方』古代の3賢者とChat GPTで議論してみた!」をかたじけなくしました。その説明に、「古代の三賢者。ブッダ先生、孔子先生、ソクラテス先生。 ほぼ同時代の3名が並んだらすごい事が起こりそう!?」という、ユニークでスケールの大きい発想がありました。お礼申し上げます。