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No.546 花粉症が警告するもの

「お山の杉の子」の歌をご存知でしょうか?
 お山の杉の子
 (一)
 昔々の その昔
 椎の木林の すぐそばに
 小さなお山が あったとさ あったとさ
 丸々坊主の 禿山は
 いつでもみんなの 笑いもの
 「これこれ杉の子 起きなさい」
 お日さま にこにこ 声かけた 声かけた
 
1944年(昭和19年)8月、少国民文化協会が学童疎開中の子供たちを元気づけるためとして懸賞募集を行ったそうです。まさに終戦の1年前で、苦戦を強いられていた軍部の戦意高揚策の一つと思われます。当初、入選作はなかったそうですが、選者の1人だったサトウハチローが、吉田テフ子の歌詞に戦時色を強めて補作した上で第1席となったと言うことを知りました。それが証拠に、その六番の歌詞は、
 (六)
 さあさあ負けるな 杉の木に
 勇士の遺児なら なお強い
 体を鍛え 頑張って 頑張って
 今に立派な 兵隊さん
 忠義孝行 ひとすじに
 お日様出る国 神の国
 この日本を 守りましょう 守りましょう
となっていました。しかし、テフ子さんの元歌は、
 (六)
 さあさあ負けるな 杉の木に
 すくすくのびよう みなのびよう
 スポーツ忘れず がんばって がんばって
 すべてに立派な 人となり
 正しい生活 ひとすじに
 明るい楽しい このお国
 わが日の本を つくりましょう つくりましょう
でしたから、明らかな意図を持って改作されたことは否めません。

吉田テフ子さんは、1920年(大正9年)~1973年(昭和48年)に生きた人で、徳島県の出身だそうです。彼女の歌に籠めた思いが、戦争によってねじ曲げられてしまったように思えてなりません。ある意味、不幸な時代に生み落とされた童謡だったのです。私の父(1921年~1975年、54歳没)とほぼ同じ頃に生きた人物なので勝手に親しみを感じています。

さて、日本は、戦争などにより、大量の木材が軍需物資として使用されました。また戦後復興や高度経済成長は、爆発的な木材需要を高め、山々から大量の木が伐採されたといいます。森林が荒れ、はげ山が出来ると、今度は自然災害により各地で甚大な被害が起きました。

そこで、終戦の翌年の1946年から、造林補助事業が公共事業に組み込まれ、1950年には「造林臨時措置法」も制定され、スギやヒノキの大規模植林が積極的に推進されたそうです。そのことが、今日のスギ花粉症と言う大問題の引き金となったのです。
 
その問題について、すでに2003年に国立成育医療センターの斎藤博久免疫アレルギー研究部長らが調べて報告をしていました。ダニやスギ花粉症でアレルギーを起こしやすい体質の人が、1970年代に生まれた人の約9割に当たるというというショッキングな発表でした。海外でのアレルギー患者が多い国でも6割台にとどまっているのに対し、世界的に例がないほど高い確率だといいます。
 
日本では、大都市出身者の方が中小都市出身者よりもアレルギー体質が高く、また70年代生まれの若い人に比べて、50~60年代の人の方が低いという年齢差のある事もハッキリしたそうです。その結果、斎藤部長は次のような見解を述べていました。
「衛生的な環境で育った乳児の方がアレルギーになりやすいとの仮説が、最近注目されている。70年代に乳幼児を取り巻く衛生環境が劇的に改善した。それが今回の結果の背景にあるのではないか」
と述べていました。当時の新聞に、その記事が載っていました。
 
日本では、小学校低学年児童にまで花粉症が見られるようになっているそうです。 一方、発展途上国では、アレルギー性疾患はそれほど増えていないことから、衛生仮説が言われるようになりました。
 
今日、世界中がコロナ禍にある中で、日本が何とか凌いでいるのは、「衛生的な国民」であることが第1に挙げられると思います。ところが、この花粉症に関して言えば、それがむしろ患者を増やす原因の一つになっているのではないかというのです。何とも皮肉な話です。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言いますが、過度ともいえる衛生過敏や衛生至上主義に陥らぬことを花粉症は警告しているのでしょうか。
 
では、我々の生活の中で、衛生上の匙加減をどうすれば良いのか、専門家に具体的な対処法を提示して頂けるとありがたく思います。薬のような即効性はないでしょうが、時間をかけてでも良い意味での体質変化が求められるのではないかと思います。第2、第3の花粉症の発生を抑え、引き起こしにくくするためにも。